代理夫を頼まれた男の決断 No.385 1月18日発

 

 今年35歳になる広正は、大学病院に内科医として勤めていた。同じ病院で働いている30歳になる看護師の優子と知り合ったのは、7年ほど前で、旅行が好きだという共通の趣味が取りもつ縁で、一年後には結婚にこぎつけた。
 ただ大学病院の勤務は多忙を極め、二人にとって新婚生活を楽しむ余裕はなかった。それでも結婚当初、妻の優子はそのスレ違いの生活に不平の一言(ひとこと)も言わず、ついてきていたが、3年ほど経つと年も年だから、子供が欲しい、と言い出すようになった。
 その言葉に夫の広正は、手を合わせるようにして、「もう少し待ってほしい。今、取り組んでいる論文が一段落したら、少しは余裕ができると思う。その時は、子供と三人で生活を送るようにしたい。」そう説明されて優子はため息をつきながら頷いていたものだった。
【夫を襲った病魔で運命は一変】
 こんな献身的な気持ちで医療に携わっている二人に、思いもよらぬ不幸が襲いかかった。
 大学の定期健康診断で、夫の広正が癌に侵されていることがわかったのだ。
 しかもその癌は、胃癌の中でも最も悪性度の高いスキルス癌(硬性癌ともいう)だった。進行が早く、発見した時にはすでに手遅れで病魔は胃全体に広がっていた。
 この状態では、すでに他の臓器への転移も認められるので、手術は不可能で「余命6ヵ月」と主治医から告げられた優子は、その場で気を失い、処置室のベッドに運ばれるほどのショックを受けたものだった。
 その知らせに駆けつけて来た広正の親友、産婦人科医の善男の姿を見ると、あたり構わず優子は大声をあげて泣きじゃくった。
 「大丈夫!大丈夫!我々の力で広正は守る。決して君を独りにしないから、みんなで協力して広正の命を助けよう!だから、優子ちゃんも気を確かにもってがんばろう。」
 その励ましの言葉に優子の嗚咽はさらに激しくなった。
【精子は死後72時間生き続ける】
 医師の広正が自分の病気に気づくのに、そう時間はかからなかった。彼は、親友の善男を枕元に呼んで訴えた。
 「優子には、すでに話してある。俺が死んだ後は、君と再婚してほしい。しかし、それは、あっさり断られた。それでも、俺の子供を何とか遺してほしい、と訴えるのだ。俺は、それも君と相談してくれ、と言った。」
 「お前、何ていうことを言うんだ。親友同士、そんな神を冒涜するようなことが出来ると思うのか?」
 「わかっている。でも、命をかけてお願いしているんだ。子供だけでも俺に代わって授けてやってくれ。」
 目にいっぱい涙を浮かべながら訴える広正を抱き締めながら善男は「わかった。子供のことは引き受けた。必ず君によく似た可愛い子供を授けるよ。」と力強く言った。
 その時、産婦人科医の彼の脳裡に、精巣から採取した精子の冷凍保存と、人工受精という言葉がしっかりと浮かんでいることはいうまでもなかった。
【灯篭流しの夜、親子三人が愛を語る】
 その6ヵ月後、広正は召されて独り旅立っていった。翌年のお盆、赤ん坊を両脇から支えるようにして広正と優子は、海に浮かぶ灯篭流しの小舟の灯りを見つめていた。いかにも幸せそうであった。
 どれ位時間が経っただろうか。
小舟の灯りを追いかけて、はしゃぎ回る子供たちの声が遠ざかると
「また来年も見に来ようね。」
と、二人を抱きしめながら、別れを惜しむようにして、天国に住む夫は静かに姿を消していった。

 

東スポ 男の羅針盤「男の生き方、男の死に方」編より