゚Д゚) < 黄金の河 (Subarnarekha) | インド映画噺

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黄金の河 (Subarnarekha) 1965年 121分(143分とも)
主演 オビー・バッタチャルヤー & マーダビー・ムコーパドヤーイー & ソティンドラ・バッタチャルヤー
監督/脚本/企画/ノンクレジット出演 リッティク・ゴトク
"ねえ教えて。あれが、本当に私たちの新しい家になるの? …本当に?"

 

 

 1948年1月26日。無理矢理に土地を追われた人々は、安全を求めて彷徨い、ついにはカルカッタ(現 西ベンガル州都コルカタ)郊外へと集まってくる。しかし、地主たちは難民の居住を断固として許さず、強制的な立ち退きを迫る…。
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 分離独立闘争から逃げてきた難民イーシュァール・チャクラボルティはその日、難民キャンプ内で母親とはぐれてしまった低カースト出身の子供オビラームを保護する。幼い妹シーターの世話もあるために、イーシュァールは偶然再会した同窓生ランビラスの誘いを受けて、難民キャンプに別れを告げて彼の経営する州立金属加工工場へ移り住む事を決意。キャンプを拠点に自立しようと奮闘する難民たちとの約束を反故にして「脱走者」呼ばわりされるのもかまわずに…。
 3人はシュボルノレーカー河岸のガトシラ(ジャールカンド州東シングブーム県内)にあるチャンティプール村での新しい生活を始めるが、イーシュァールは工場の仕事で日中は家を空け、オビラームも遠い学校へ通うために家を出ていく事に。ただ1人、シーターだけが家に孤独のまま残されていく…。

 数年後。
 工場のマネージャーに昇格したイーシュァールのもとに、学業を終えたオビラームが帰ってきた。彼の帰還を喜ぶ2人を前に、オビラームは工学士取得のためのドイツ留学を蹴って作家になるためカルカッタに行くと言い出す。微妙な顔をするイーシュァールを尻目にカルカッタ行きにシーターを誘うオビラームは「君が好きだ。僕が贈り物をしたら受け取ってくれる?」とネックレスを贈るが、2人の関係に気づいたイーシュァールは…。

 

 

挿入歌 Aaj dhaner khete roudro chhayay... (今日の風は笑い声を乗せて)

 


ニコニコ タイトルは、ジャールカンド州からベンガル地方を通ってオリッサ州に流れる大河の名前。劇中舞台となるチャンティプールは、その河岸にある村という設定。
 河の語義は「黄金の筋(が見える河)」。かつて、この河が流れるラーンチー近郊のピスカで金が採掘された頃に名付けられた名前とか。
 英題は「The Golden Thread」。

 ベンガル語(西ベンガル州とトリプラ州、オリッサ州、アンダマン・ニコバル諸島の公用語。バングラデシュの国語でもある)映画界の名匠リッティク・ゴトクによる、印パ分離3部作の第3作となる、ベンガル語映画(3部作第1作は、60年の「雲のかげ星宿る(Meghe Dhaka Tara)」、第2作は61年の「Komal Gandhar」)。
 制作そのものは、1962年に行われていたと言うものの、公開は65年まで延期されていた映画。
 2019年の同名短編映画、2022年のマニ・ラトナム監督作「PS-1 黄金の河(Ponniyin Selvan: I)」とは別物。

 90年代以降、世界各地で映画祭上映・イベント上映されていて、日本では2007年の東京フィルメックスの日印交流記念事業特集上映「リッティク・ゴトク監督特集~インドの伝説的巨匠~」にて、「黄金の河」の邦題で上映されている。

 インド独立と時同じくして起こった分離動乱の嵐が、それぞれの家族の中にもあらゆる分断を生み出し、1つの家族として幸せを掴もうとした人々の希求する「統合の夢」が儚く無残に散って行く様を見せつける1本。

 すでに映画冒頭で両親を失っているイーシュァール(アルファベットのスペルは"Iswar"だけど、音的には"イーシャール"と聞こえる)とシーター兄妹が、父親を失い目の前で母親とはぐれてしまったオビラームを、低カーストと知りつつ母親が見つかるまで保護しようとする所に、分割されたベンガル社会そのものが仮託されてるのが明白な物語構造。
 その分割された者同士が寄り集まった擬似家族が、「本当の家」を求めて彷徨い、同胞になれるかも知れなかった同じ難民たちから「脱走者」と蔑まれるのも厭わず、大河の岸辺にて理想的な家を手に入れながらも、故郷を遠く離れた土地での生活のために結局はバラバラに暮らして行くしかなくなる皮肉が、気丈なシーターの孤独を表す広大な画面の切り取りに現れ行く。
 人生の行く先に迷うベンガル人の心許なさを表現するような、さまよう目線や広大な自然を背景とした小さな個人の様子など、その時々の心情を見事に移す映像の美しさは、しかしラストへ向けての伏線ともなり、そのあまりに不条理な悲劇の中にある個人の孤独・悲哀・絶望を余すことなく伝え続ける映像の迫力・対比表現・白黒効果の発揮具合は、まさに名作と謳われるにふさわしい完成度を誇る。

 この名作を手がけたインドを代表する映画監督リッティク(・クマール)・ゴトクは、1925年英領インドのベンガル州ダッカ(現バングラデシュの首都)生まれ。
 父親は地方治安判事を勤める一方で詩人、劇作家としても活躍したスレッシュ・チョンドラ・ゴトクで、兄に学者兼作家のモニシュ・ゴトクがいる。
 1943年のベンガル大飢饉~1947年のベンガル分割に至るまでに、家族で段階的にカルカッタへと移住し、カルカッタ大学芸術コースへ進学。その大学時代に作家活動を開始して戯曲や小説を寄稿して名声を得て、大学を中退。小説家兼劇作家として活躍する中で、1950年のベンガル語映画「Tathapi」に出演して映画界入り。1951年の「Bedeni」で助監督&共同監督を務めて男優兼助監督兼台本制作として映画界で活躍し始める。同年にIPTA(インド人民演劇協会)に加盟し、翌52年に発表した演劇「Dalil」が53年度全インド人民演劇協会展で最優秀賞を獲得する。
 共同監督やドキュメンタリー監督を務めた後、57年の劇映画「Musafir(旅人)」でリシケーシュ・ムケルジー 監督とともに脚本を務め、翌58年には、「Madhumati(マドゥマティ)」でヒンディー語(インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語)映画に脚本家デビューするとともに、「非機械的(Ajantrik)」で劇映画の単独監督デビューを飾る。この映画は、無生物(タクシー)を1登場人物として描いた最初期のインド映画としても有名になったそう。以降も、ベンガル語映画界で活躍し(本作は、長編の劇映画としては6本目の監督作)、映画監督としてサタジット・レイやトーパン・シンハ、ムリナール・セーンと並び称される巨匠となって行く。1970年には、国からパドマ・シュリー(国から一般国民に贈られる第4等国家栄典)が授与されている。
 映画の他、舞台演劇や多くの著作を残していたが、1976年にカルカッタにて物故。享年50歳。

 擬似家族の大黒柱イーシュァール・チャクラボルティを演じたのは、1921年英領インドのベンガル州ラジシャヒ(現バングラデシュのラジシャヒ県ラジシャヒ市)生まれのオビー・バッタチャルヤー。
 詳しいデータが出てこないけど、1947年のベンガル語映画「Naukadubi(難破舟)」で映画デビューしてから主演男優として、50~90年代初頭まで主にベンガル語・ヒンディー語映画界で活躍し続けた人で、1955年のヒンディー語+ボージュプリー語(インド語派のうちマガダ語群ビハール語に属する言語)+サンスクリット(古代インド・アーリア語に属する言語で、少数言語ながら現代インドの指定言語の1つ。ヒマーチャル・プラデーシュ州とウッタラーカンド州の公用語でもある)+英語映画「雌花(Jagriti)」でフィルムフェア助演男優賞を獲得。
 70年代に哲学者ダダジーを信奉してスピリチュアル活動に傾倒。多くの神様映画でヴィシュヌ神を演じる男優としても知られるようになる。
 1993年マハラーシュトラ州ムンバイにて物故。享年71歳。

 サタジット・レイの「オプー3部作」にも似た家族をテーマにした映画ながら、印パ分離3部作の最終作であるこちらは、その分断具合を意識させるような哀しきモチーフがよりラストへ向けて静かな…しかし内に秘めたあまりにも苦しい激情へと繋がって行く。
 タイトルに描かれる大河に沿って作られた道と、そこから見える対岸の「新しい家」の小ささ。飛行機のやってこないひび割れた滑走路。兄弟でありながら親子ほども年の離れたイーシュァールとシーターの、年が離れているがために現れる視界や価値観の違い。人生にも例えられる河の流れに見えるはずの希望の虚しさ…(「黄金が流れる河」と謳われるその名前の虚しく響くことと言ったら!)。
 シーターとオビラームが幼い頃は生まれの違いなぞ問題にもならないものでしかなかったのが、成長したオビラームがシーターを愛するようになってくる段階で初めてイーシュァールの中に階級意識や世間の目と言った伝統的価値観が立ち上がり、家族を守るはずの伝統が家族の分断を生み出してしまう悲しさ。世間の目を無視してカルカッタへと駆け落ちして行く2人を待っていた悲劇と、さらなる運命の残酷さが牙を剥く兄妹の末路…。分離動乱の嵐によって家を失くした人々が求める幸福が、いつまでも幻のままに消えゆく現実の儚さは、そのまま分断されて1つにまとまる術を持たないベンガルの悲しさそのものを見せつけて行く。

 シーターが残した幼い息子が、大河の対岸に見える母の実家を前にして発するかつての幼いシーターと同じ台詞は、そんな悲しさを前にして受け継がれる分断された人々の声であり、亡き母と息子とを統合する「求めていた幸福」の象徴ともなるシーンでありましょうか。大河を渡る方法を知っていながら、分断されたままの対岸同士が出会う日を夢見た人々のひとときの幻のような声に、黄金を見たいと希求する人々の願いが込められて行くようであり、その夢が枯れることもなくいつまで流れ行くのだろうかと問う人生の虚しさを歌うようにも聞こえる。その黄金が、もう大河を流れることはないかもしれないことを知っていてもなお…。

 

 

 

 

(。・ω・)ノ゙ 黄金の河 を一言で斬る!
「母親のことを『マー』、伯父のことを『マーマ』と言うややこしさが、こんなにも映画の中で効果的な感動ポイントに昇華するとハ!!!」


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