゚Д゚) < Kathaa (カーンチャとクマリの物語) | インド映画噺

インド映画噺

主に映画の、主にインド映画の、あとその他の小咄を一席。
↓こちらも参照くださいな。
インド映画夜話
http://yuurismo.iza-yoi.net/hobby/bolly/bolly.html

Kathaa (カーンチャとクマリの物語) 2013年 112分
主演 サウガート・マッラ & ウーシャ・ラジャク
監督/原案/音楽/歌 プラシャーント・ラサイリィ
"約束したんだ。必ず帰ってくると"

 

 

 その日、久しぶりに村を訪れた呪医は、死亡した女性の霊が村を彷徨っていると村の男に語る。話を聞いた男は、その女性…クマリを思いその経緯を呪医に語り出す…。

**************
 ヒマラヤ高山地域のシッキムの村で働く吃音症の青年カーンチャは、近所の発話障害の羊飼いの娘クマリと愛を育み、なにかと2人で過ごすようになっていた。
 そんなカーンチャを見ていた友人ソナムは、ぶっきらぼうなカーンチャに「結婚したいなら金を稼がないと」と持ちかけ、知り合いのツェリン兄貴のヤクの放牧仕事のための遠出を持ちかける。当初は離れ離れになるのを嫌がる2人だったが、ソナムに説得されたカーンチャが再会を約束して旅立つと、2人は静かに再会の日を焦がれるように…。

 それからしばらく後。
 カーンチャが戻らないままの村を彷徨うクマリは、その日、泣きながら食べ物を求め、村人に罵られながら人目を避けて山頂付近へとただ一人で登っていく。彼女の手に握られた鈴の音に気づく人もいないままに…。



主な登場人物 ()内は役者名
テンジン (テンジン・シェルパJr.)
テンジンの父 (ティモシー・ラーイ) 呪医の話を聞いて、クマリに関する物語の語り手となる。
呪医 (ターミ・バージェイ) テンジン親子の住む村に久しぶりにやって来た呪医。物語の聞き手。

クマリ (ウーシャ・ラジャク) 山間の村に住む羊飼いの娘。発話障害を持ち、人を呼ぶ時には鈴を振って、身振り手振りで会話する。父親を交通事故で亡くしている。
カーンチャ (サウガート・マッラ) クマリと想いを交わす青年。吃音症で、素直ながらぶっきらぼうな性格。ヤクの放牧の仕事に出る際、クマリから彼女の父の遺品である防寒用フードをもらう。
ソナム (ティモシー・ラーイ) カーンチャの友人。彼を同居させて、一緒に働く親友であり悪友。純粋ながら周囲が見えていない孤立気味のカーンチャの、1番の理解者であり保護者的存在。
ソナムの母 (ハスタ・マヤ・ラーイ) 息子と共にカーンチャを家に住まわせ世話している。
クマリの母 (バル・クマリ・チェトリ) 夫を亡くして羊飼い仕事に奔走していて、その稼ぎをカーンチャに使うクマリにいつも怒っている。
ツェリン兄貴 名前だけ登場。ソナムの知り合い。ヤクの放牧を手伝ってくれる人材を探している。
隣人 (ツェリン・チョデン・ブーティア)
近所の子供 (テンジン・シェルパJr.) 襲撃されているカーンチャを見て、即ソナムを呼びに走る。

 

 

プロモ映像 Kathaa Baaki Hunchha

 


ニコニコ タイトルは「物語」「語り」の意? アルファベット表記では「Katha」とも。

 史上初のシッキム語(別名デンジョンケー、デンジョンカ、シッキム・チベット語、ブティヤ語とも。ネパール北東部のブティヤ人在住地域~インドのシッキム州~ブータンで話される南チベット諸語の1つ。シッキム州の公用語でもある)映画、とのこと。
 実際に、インドのシッキム州東部で台本なしで(ホンマ?)14日間で撮影されたと言う、悲恋劇ネパール映画。

 平地の少ない傾斜地ばかりの高山地域の美しい景観をこれでもかと魅せていく、シッキム農村地域アピール映画でもあろう本作。
 台本なしで撮影されたという、共に発話に関する障害(先天的なのかどうかは劇中では不明)を持ち孤立気味の男女の恋物語は、障害を乗り越えての純愛の様が純粋であればあるほどに悲劇へと転化していく「ロミオとジュリエット」的な悲恋劇にまとめられている。
 よくある低予算現地観光アピール映画とは違い、ネパール映画界の人気俳優を配置してしっかりと予算を組んだ上でのアート系映画として制作されていて、劇中のシッキムの生活の様子はどこまでも幻想的であり夢想的。撮影機材の機能をフル活用して、2人の恋人の淡く儚い恋模様を美しく描いていくかと思えば、劇中の村や男2人だけのヤクの放牧地の寂しくもいわくありげな草地・岩場の切り取り方もどこまでも絵画的。そこに暮らす人々の生活文化の描写は必要最小限と行った感じで、主要登場人物たちの不自由な暮らしの不自由さを、どこまでも夢想的に描き出す一種のお伽話感も匂ってくる。
 見ている間中、雲に煙る荒涼とした草地に建つ石造りの家の残骸が、アイルランドかスコットランドの人里離れた廃墟のようにも見えてきてしょうがない(ああ、ヒースクリフが出てきそう!!)。

 監督を務めたプラシャーント・ラサイリィは、ネパールで活躍する映画人。
 詳しい経歴が出てこないけど、インドとネパールで脚本制作や助監督を務めていたそうで、本作主演のサウガト・マッラ(OPクレジットでは、Saugaat Mallaと書いてあるので主演名を"サウガート・マッラ"としておくけれど、EDクレジットは普通に"Saugat Malla"だった)の主演作「Kagbeni(カッグペニ)」で脚本を担当。ヒンディー語映画界のアヌラーグ・バス監督作の助監督なども務めていたそう。10年のヒンディー語映画「カイト(Kites)」制作に参加したのちネパールに戻って、11年に「Acharya(アチャーリヤー)」で監督デビュー。本作が2本目の監督作となったよう。その後、17年にはミュージックビデオ「Ganesh Senchuri: Fanfani」の監督も務めているとか。

 悲劇の恋人の一方カーンチャを演じるのは、ネパール映画界の怪演男優サウガト・マッラ。
 ネパール初の俳優学校アーロハン・グルクルで演技を特訓して舞台演劇で活躍。98年の「Ranabhumi」で端役出演して映画デビューし、08年の「Kagbeni」で主演デビュー。11年のプラシャーント・ラサイリィ監督作「Acharya」ではキャスティング・ディレクターを務める。12年の出演作「Loot(略奪金)」では台本制作にも参加して、その大ヒットで大きく注目されて以降ネパール映画界で活躍中。22年の「The Secrets of Radha」ではプロデューサーデビューもしている。

 もう一方の悲劇の恋人クマリを演じたのは、1985年第三州ラリトプル(別名パタン。現バクマティ州ラリトプル郡ラリトプル)生まれの女優兼モデル ウーシャ・ラジャク。
 5才時に父を亡くし、母親と4人の姉と共に育つ。カトマンズの学校に進学する中で、路上で頻繁に嫌がらせを受けることの予防として松濤館流空手を修得。経済学を修了して、大学での学士課程に入る傍でモデル業を開始。数々のモデル賞を獲得して、05年のネパール国立演劇コンペティションで初めて演劇に参加し最優秀女優賞を受賞。06年のワールド・ミス・ユニバーシティ・ネパール代表を務めることとなる。
 演技特訓の時に知り合った俳優・映画人との交流から、2010年の「Kusume Rumal 2(ピンクのショール2)」のセカンドヒロインに抜擢されて映画デビュー。以降、モデル、舞台演劇、映画、社会活動で活躍中。

 劇中の舞台は「シッキムのある村」くらいしかわからない所ながら、撮影自体はシッキム州東部で行われた本作。現在インドの1州であるシッキム地方の映画をなんでネパールの会社が作ってるのかといえば、色々と複雑な歴史的背景もあるよう(…って言っても、劇中物語にはなんも関係ないけれど)。
 シッキムの元々の先住民レプチャ人が住んでいた所に、17世紀中頃にチベットでの政治対立に敗れたブティヤ人(チベット仏教ニンマ派の人々)が亡命政権を立てたのがシッキム王国(ナムゲル朝)の始まり。権力側のブティヤ人と先住のレプチャ人の混交が進む中、チベットや清の属国扱いになっていた王国にブータンやネパールがたびたび侵攻して一部地域を支配されてしまう。そこに英領インドがその反撃に手を貸して、イギリスのチベット遠征への足がかりとなるよう保護国化。同時期のシッキムの茶葉栽培産業の拡大に伴い、ネパール人労働者が大量に移住してきて人口の7割強を占めるまでになっていく。
 インド独立後、インドの保護国となったシッキム内の政治はブティヤ・レプチャ系とネパール系の対立が激化し、宮廷親衛隊とデモ隊との衝突にインドが軍事介入して沈静化させた後、議会と国民投票双方でインドへの編入が決定。王国は滅亡し、シッキム州が誕生することとなる。
 現在も州の住民の7割はネパール人で、公用語はシッキム語、レプチャ語の他、ネパール語、リンブー語、タマン語などネパールから入ってきた言語も多数認定されている状況。

 モンゴロイド顔の多い劇中の村にあって、彫りの深い顔してるウーシャ・ラジャク演じるクマリが、デビュー作に見えたバリバリのモデル顔を消して素朴な村娘に激変してるのもビックリながら、台本なしでの撮影のためか後半に恋人2人に襲ってくる不条理の塊が静かな狂気と化していく様もなかなかに衝撃的(絵的には、終始静かなトーンなんですが)。
 史上初のシッキム語映画として、やや強引とも言える悲恋劇でそのシッキムの情景をどこまでも幻想的に切り取る映画の画面の落ち着いた美しさこそが、この映画の最大の魅力であり「ああシッキムが本当にこんな綺麗な所なのか、見てみたいなあ」とか思えてしまう麗しさよ。映画後半、話をまとめようとして雰囲気で乗り切ってるところもなきにしもあらずな感じながら、悲恋劇を彩るシッキムの荒涼とした山々の情景、雲や闇夜が流れていく傾斜地の影、人影よりも岩の影の方が多い灰色世界を切り取るヒロイン クマリの衣服のカラフルさや朝や雲海を彩る光線の穏やかな色彩世界よ。静かに、文学的に、映像詩的に現れてくる、穏やかなシッキムの情景こそ、その歴史文化を越えて魅せられていく映画というものの持つ表現力でありましょうか。冒頭に話の語り手となる父親が、映画ラストに誰でどんな発言をしていた男なのかが判明するくだりも、人生のままならなさを強調するスパイスとなっていて美しや。

 


メイキング(字幕なし)

 

 

 

(。・ω・)ノ゙ Kathaa を一言で斬る!
「カーンチャたちがヤクの放牧で来ていた高原の、巨岩に書かれていたチベット文字? がなんて書いてあったのか知りたい…(読めない…くぅ)」


↓こちらも参照くださいな。
インド映画夜話