NYのアーモリー・ウィークにチェルシーで開催されたINTERNATIONAL CONTEMPORARY ART SHOW 「SCOPE NY」での『Yuuki Kobayashi  Crystal Verse ~A Pillar Where the Soul Arises~』(小林勇輝「言葉の結晶展〜魂に立ち昇る柱〜)、無事に終えることができました。応援いただきました方々に重ねて御礼申し上げます。

 


 

世界中から選抜された70ほどのギャラリーが参加する中、ソロで展示をさせていただくことができたのは大変貴重な機会でした。

 


 

 

世界中から訪れた方々は、口々に、このブースが一番好きだと大絶賛で、最も人目を引いていたそうです。

 


 生きている墨の線が織りなされて形となっている作品、そしてそれらの線が会場に散りばめられ結晶化してゆく様子が、混沌としていながら調和しているという独特の空間が評価されました。まるで中央に浮かんだ羽が踊りながら詩を書き連ねていったようだと言われました。

 


言葉は通じなくとも線から受け取った感動に涙してくださった方もいました。

目には見えない魂を表現するためにと研鑽を積んだことが報われた瞬間でした。

詩を読んだ方からは、今、最も大事なメッセージを発信していると多くの共感を得ることができました。

 

 

好評であったため、今度の夏に再びNYでの招待個展が決まりました。

皆様の応援のおかげです。本当に有難うございます。

 

 

NYは確かにアートの最先端の地であり、世界の文化発信や経済の中心の一つであり、世界中の文化が入り混じるとても刺激的な街です。多民族が入り混じる地球に生きているということを実感出来る数少ない土地の一つであると思います。

しかし実際に展示してみて確信したことは、感動が生まれる場所こそが世界の中心であるということです。感動の数だけ中心となりうる柱が立ち上っているのです。

NYは世界中から夢を持って人々が集まっているので、その感動が生まれやすいのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年は、皆様からのご支援を賜り、伊勢志摩サミットでの役割を果たすことができました。その後の夏のニューヨークでの個展は高い評価を得ることができました。これもひとえに皆様の応援のおかげです、心から御礼申し上げます。

そしてこの度、今年の3月2日から5日までニューヨークのチェルシーで開催されるアートフェアへ推薦をいただくことができました。

 

私は心を元気にしてくれた音楽の詞で言葉の力を知りました。それから自作の詩を作るようになりました。自作の詩を筆で書くという出力の方法と出会ったことで、想いは溢れ、その詩が、あるとき翼のかたちになりました。その翼はキラキラと光っていました。書で、言葉で、作品で、世界をより幸せにできたらどんなに素晴らしいだろうかと思いました。しかしその活動は、綱渡りの連続で奇跡に奇跡の連続でした。いつしか今生きている不思議を感じるようになり、支えてくださる方々の尊さと、地球に注がれている愛の尊さに気がつき、生かされていると感じるようになりました。そして感謝するとはどういうことか知りました。そしてそれらは全て作品に反映されてゆきました。この芸術活動は皆様から育てていただいたようなものです。この活動を今こそ世界に届けたいと思います。

 

世界にはそれぞれに様々な価値観があるので、その分、問題もあります。しかし、ひとりひとり、国や地域で違いがあるからこそ、世界は面白い場所で、今を生きていることがどんなに素晴らしいことであるかということを感じていただきたいと思っています。それぞれに何か足りないまま、そのままの姿で調和する時代がきたことを伝えたいと思います。いま存在している平和で奇跡的な世界に感謝することで世界が本当の平和を歩み出す時がきたことを告げたいと思います。この世界に本当に感謝をして心を開いたとき、そこにはいつも愛が注がれていて、その愛を素直に謙虚に受け取ることで、さらなる感謝が生まれ、その愛と感謝の力で地球はさらに生き生きと廻り始めます。その心を開く鍵となる作品を世界に向けて発信したいと思っています。

人類の意識は少しずつ進化していますが、今、もう一歩というところで、試されているときです。全ての人がどんな世界にしたいのか、どんな世界を選ぶのか問われています。世界を決めているのは、どこかの誰かではなく、ひとりひとりの意識であることを感じてもらいたいと思っています。アートにはその力があります。芸術は時代の鏡です。人によっては、アートはわからないものなのかもしれません。しかし、そのわからないという感覚こそは大正解です。この世界自体が謎めいていてわからないものだからです。わからないところをわからないままに表現できるのもアートの強みです。踏み出したことのない一歩を踏み出すのも芸術の役割です。芸術作品にはこの世界の謎や真実が美に変換されて現れてくるので、そこからインスパイアされることが沢山あり、多くのイノベーションが生まれています。そのことにニューヨークという街は気が付いているので、生き生きと輝き続け、まるで世界の文化の集合意識のようになっているのです。そこに日本で育てていただいた集合意識も混ぜ込み、新しい世界の第一歩を踏みだすためのひとしずくにしたいと思っています。

これから地球上に生まれてくる新しい命たちに、希望に溢れた世界を感じてもらうため、人類の可能性を信じてもらうため、地球の輝きを次の世代につなげるため、この命の役割を果たす覚悟を決めました。

 

 参加するアートフェアは、「Scope New York」という、最も新しい表現をする新しいアーティストの作品を紹介するフェアです。出展を決めたのは、アートの原点を感じる古代からの手法や受け継がれてきた伝統と新しい表現を融合させた表現こそが最も新しく、いま最も地球に必要な表現であると確信しているからです。古くて新しく未来へとつながってゆく表現で、次の時代の潮流を生み出したいと考えています。

そして、白があるからこそ黒が活き、黒があるからこそ白が活きるという、白と黒の空間が調和する世界観で、全ての事象に陰と陽があり、物事はそれをどのようにとらえるかで絶えず変化しているので、捉え方次第で悲しみはいつでも終わらせることができ、平和はいつでも生み出せることができることを伝えたいと思っています。そして光も影も表裏一体でそのどちらもが地球にとってかけがえのない存在であることを感じていただきたいと思っています。

 

芸術活動を続けることができるのはこれまでに出会った皆様のおかげであると、心の底から感謝しております。出会えた奇跡と必然に感謝し、皆様の心と一緒に、世界を開く希望となりますよう命を尽くします。時代やテクノロジーがどれだけ進歩しても失うことのない大事なこころが世界中に届きますよう、これからもお力添えをいただけましたら幸いです。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

千のいのり~世界の夜明け~ 

「生キトシ生ケルモノガ幸セデ在リマスヨウニ」との言葉が、平和を象徴する折り鶴のカタチとなって、いのりを表現しているこの作品の、平和への想いが、伊勢志摩サミット開催を、ひとつのきっかけに、各国首脳の方々、そして全世界の人々へ、平和の象徴であるこの日本の、魂のふるさとであると言われている伊勢志摩の地から届けようという、ムーブメントが、いままさに起きようとしています。
世界の舵をきってくださっている首脳の方々へ、多くの方々の平和を祈る気持ちを集めてそれを届け、日常で使っていただけるものとしてプレゼントすることで、少しでも平和へ向かう方へ世界がシフトしますようにとの、切なる祈りが込められた運動です。
ハチドリのひとしずくから始まったこの運動はご賛同いただきましたいくつかの伊勢志摩の地元企業のおちからをお借りして、カップ&ソーサーとなり、使っていただけるお土産として、具現化できるところまで進めることができました。

世界にはたくさんのものがあふれています。そのものの中には、こんなものはできるはずがないと言われながらも、世の中のためになるという信念を曲げずにやり続けて生まれてきたものもあるでしょう。どんな小さなものだとしても、使うひとがより使いやすいようにとこころを尽くして生まれてきたものもあるでしょう。
今回生まれるものは、多くの方々の目には見えない祈りが具現化し、その祈りを届けるという志を共有し、その祈りが届くという奇跡の軌跡があらわれるものです。

この作品のカップ部分は、「五穀豊穣」という言葉が稲穂のかたちになっている印と、「生キトシ生ケルモノガ幸デ在リマスヨウニ」と世界の安寧を願う折り鶴と、それぞれがそれぞれを補い合うかのように、シンプルに立っています。それぞれ、世界から貧困をなくし、豊かな実りと、大地への感謝を祈る、衣食住の神様である外宮と、人々の平和と安寧と幸せを祈る内宮をも象徴しています。
ソーサー部分は、折り鶴がよりそうことで、三重県の名産でもある連鶴ともなっており、連鶴が和になるエネルギーが真ん中に向けられることで、その夜明けの太陽から折り鶴が立ち上ってくる様となってあらわれるようになっています。和となった連鶴は集まった祈りであると同時に、太陽の輝きでもあります。そしてソーサー全体で、無私の祈りが集まって輝く、古代の「かがみ」のようになっています。
手をつなぎ和になっている折り鶴は全て同じもののように見えますが、千枚ほど書いた中から全て違う折り鶴を選んで使用しており、どこから見ても正面となる、調和と平等を象徴しています。

ソーサーにカップを置いているときは、太陽は隠れています。これは、日本の内に秘めるという美学に加えて、カップを手に取るという小さな行動が加わることによって世が明け、カップを口に運ぶと太陽が姿をあらわすというように、実際に手に取り使っていただけることで、そのかけがえのない時間と共に作品が完成するというようになっています。

このような、作品に込められた、よりそうこころや、足りないものを補い合う関係や、平和を祈る愛が、実際に使っていただくことで、日常の中にもあふれ、「世界」の最小単位でもある身近な「家族」や「職場」にも、輝く笑顔が生まれ、こころにも日が昇ることにつながりますようこころから祈っております。

前回からの続きです。


『生キトシ生ケルモノガ幸セデ在リマスヨウニ』


この言葉を紡ぎ、何枚も何枚も書き重ねることで、平和を祈る折鶴のカタチへと結晶させてゆきました。

この折鶴というモチーフにはいくつもの意味と祈りが込められています。
ひとつは世界唯一の被爆国であることから、もう二度と凄惨な歴史は繰り返さないという「決意」と、「死を乗り越えた『生』」を。
そこからつながる「平和と安寧と長寿」を。
鶴は夫婦仲が大変良く、一生を連れ添うことから「仲良きことの象徴」を。
鳴き声が共鳴して遠方まで届くことから、「天に祈りが届くこと」を。
そして「恩返しの精神」を。

その折鶴の脇には、『五穀豊穣』という篆書の文字が稲穂のかたちになっている篆刻印が押してあります。平和を享受できるのは最低限の豊かな実りがあるからこそで、その豊かな実りをあたえてくれる自然への敬意や感謝をあらわしています。そして物質的にも精神的にも豊かな世界になっていってほしいとの願いが込められています。


平和にもそれぞれに思う平和があると思います。
平和のモチーフとして折鶴を選び、「生きとし生けるものが幸せでありますように」との言葉に託しましたが、この言葉のなかにある「幸せ」。この「幸せ」も、それぞれに幸せのかたちがあり、ひとつとして同じ幸せはありません。そして何を幸せに思うかもそれぞれです。

世界の平和という大きな理想を考えたとき、それは途方もない夢か幻のように感じるかもしれません。しかし、いますぐにでもできること、それは平和なイメージをし、いのり、感謝すること、そして、そのイメージで、ごく身近な家族や近しい世界から幸せにすること。少しだけ相手の立場になってよりそうこと。はじまりはそんな小さなことかもしれません。ひとりでは小さないのりや小さな行動も、集まって、そのイメージがひろがってゆけば世界はきっと平和な方向へと進んでいくはずです。その小さなひとつひとつの意識こそが、世界をかたちづくる大切なひとピースひとピースであるかもしれないのです。
詩と書と造形が三位一体となっている表現をいまのところ「言葉の結晶作品」と呼んでいます。それらの言葉や文字から生まれる作品が持つ社会に対する役割は何なのかと考えたときに、調和や、平和のメッセージを発信するということが大きなテーマのひとつとなってゆきました。
言葉の結晶作品という詩と書と造形の表現が、それぞれの表現の垣根をこえて調和している作品であると同時に、目には見えない大事なものがあらわれる表現でもあるからです。

ここ数年は、詩と書と造形だけではなく、音楽や、ダンス、写真、映像など、様々なジャンルの方達と調和を図り空間を創るという表現も試みてきました。LIVEの表現はその一環で、多種多様な表現で空間を満たすことにより、多種多様な価値観がよりそえるきっかけとなればと思い始まった活動です。そして最近ではそこで表現するひとだけではなく、空間を感じてくださるひとたちの意識もLIVEに盛り込んだ表現をと思っており、どなたでもその場に加わることができて、そのLIVEという名の通り、今この時代を生きているということを実感していただけるような空間を創りたいと願っています。



今年のサミットが伊勢志摩で開かれることになっており、このことは何かしらの意味があると思っていました。そう思っていた同時期頃にフランスのテロの事件のニュースを知り、さらに平和とは何か、どうすれば平和へとつながるのかということを真剣に考えました。作家はどこまでいっても作品で訴えてゆくことしかできません。しかし、それこそが世界に対する志事のひとつであると思っています。それは、本当に小さな蝶のはばたきほどの小さな小さな力かもしれませんが、その平和への小さな祈りがやがて大きな平和へのうねりとなるようにとの想いからいくつかの言葉が生まれました。


「ホシハイマ 大イナル日ニ極マリテ セカイヲ救ウ ヒトツナギノ和」



「平和への 小さないのり 風となり 大きなうねり 歴史動かす

人類の 意識のしんか 世界から 争いのひの とわにきえたひ」



「無垢で小さい ぼくのては

未来をまもる かのうせい

無垢にかがやく すいしょうの

わたしのひとみ なかよしな

けしきをいっぱい うつしたい

こころふるえる はじまりの

はじまりはじまり

あたらしい きせきのとびら

いまひらく」



これらの言葉は、世界のどこかの誰かが真剣に平和を祈るイメージが切り取られて生まれた言葉であったり、これから生まれてくるであろういのちの視点に立って、未来へ平和のバトンを渡したいとの思いから生まれてきた言葉です。

しかし、真摯に平和を祈る言葉として、もの足りなさや、言葉かずの多さを感じていました。
前回にも少し触れましたが、ある方にお会いして、お話を伺い、感じていたもの足りなさのひとつに気付かされました。それは、人類という視点からだけで切り取られていた言葉であったからです。
平和という状態を生み出しているひと以外のもの全てへも「当たり前」ではなく「有り難い」という感謝を感じ、今だけではなく、過去、現在、未来、とつながる全てにも感謝できたとき、今回の作品の言葉は私の詩ではなく、いままで祈られてきた、そしてこれからも祈られてゆくであろう普遍的な言葉から選びたいと思うようになりました。そしてたどり着いたのが


『生キトシ生ケルモノガ幸セデ在リマスヨウニ』


という言葉でした。
「詩」や「書」や「造形」など、作品を構成している要素について書く前に、この作品に社会に対するなんらかの役割があるとしたら何であるのかということが頭をよぎりましたので、そのことについて少し書こうと思います。以前、作品が「あらわれる」と書きましたが、どこからあらわれるのでしょうか、何も無いところからだけ生まれるのでしょうか。それだけのはずがありません。何かの意識、誰かの意識、感じたこと、見てきたこと、知っていること、そのようなところからも生まれているはずです。世界で起こっている何か、どこかの場面、誰かの意識、そのようなものが切り取られて昇華され作品となっているのではないかと思います。「私」のことを書いたように思っていても「あなた」のことを書いているかのように感じたりするのは、ことばというものの不思議ももちろんありますが、「私」も「あなた」も「誰か」も「世界」もどこかできっとつながっているからではないでしょうか。

藝術作品や藝術家は、社会や世界が育てる、あるいは社会や世界から育てられる、という風に形容されたりします。それは、その時代だからこそ、そのような表現が生まれているという時代背景があるからです。
専門家や愛好家の方には別として、昔のままの表現の古典藝術が現代の一般に生きている人々にストレートに響きにくいのは、時代は絶えず変化しているのに、その時代に合わせて表現が変化していないからだと思います。もちろん時代が変わっても変わらないものや価値観、表現があり、そんな作品を生みたいと思っていますので、古典藝術をないがしろにしていいと言っているいうわけではありません。特に書道藝術にとっては、古典は「今」を表現するために欠かすことのできない大事な要素です。それは「今」という瞬間が、過去に生きたご先祖様がいないと存在しないのと同様に、その藝術作品が藝術作品として存在できるのは、途方もない数の先人達がいのちを削ってその藝術を切り拓いてきた歴史があるからです。
そう思うと書跡を残してくださった方々へは、ご先祖様と同様に感謝と尊敬の念を抱かずにはいられません。そのように考えると臨書はお墓参りのようでもあります。
感謝をすることで、過去に在ったいのちの才気が、今を生きるいのちを応援してくれることもあるかもしれません。
遡れば全ての起源はつながっています。DNAの奥底でその才気がフタを開けてくれるのを待っているかもしれません。

先人には敬意を払い、感謝もしますが、しかし「今」を実際に生きることができ、「今」を感じて表現し、「今」という時代を担えるのは、「今」を生きているいのちだけです。
当たり前かもしれませんが「今」という時は、「過去」ともつながっていて、「未来』ともつながっています。本当に当たり前につながってきて、つながってゆくのでしょうか。「当たり前」という言葉の反対の言葉は「有難い」であると聞きました。感謝をすればするほど様々なことが当たり前のことではないように思えてきて、だからこそ、この世界に在るという奇跡の瞬間を使って、その限られた時間のなかで何を切り取るのか、何が表現できるのか、この藝術でしか、このいのちでしか出来ない役割は何であるのか、そのような問いが無意識に発せられ続けます。そしてそのことは作品が生まれてゆくきっかけともなってゆきます。

現代もうすでに、あるいはもっと先の未来においてかもしれませんが、すべてのひとが、藝術家と同じように創造性が要求されることがあるかもしれません。過去、現在、未来をつなぐ創造性です。
現代においては、誰しもがその創造性を共有し発信することが可能であるので、ひとりひとりが世界に与えうる影響はますます大きくなってゆくことでしょう。
そんなときに大事にされるのは機械では判断できない人間的な感覚であると思います。
そのような人間感覚を呼び覚ますこと、調和の世界を模索すること、かたより過ぎないバランス、これらは冒頭であたまをよぎった、結晶作品の社会に対する役割であると考えています。
いのちをかけて、実験的に挑みながらそれらの価値観を試し、その漠然とした未知なる価値観を美として表現し、なんとかかたちにすることで、あるときは旗ふりとなって、またあるときは世界の鏡となり、より喜びの多い世界を創造するための叩き台であれたらと思っています。そして作品に触れてくださったひとが身も心も豊かになってくださったなら、作家冥利に尽きるのかなと思います。

前回、アートは「あらわれる」と書きました。あらわれてきた表現にはちからがあると書きました。
宇宙とつながってできた、作為的でない、あらわれるアートには魂に響く感動と、万巻の書物も超えるような情報が詰まっていると書きました。つながっている「宇宙」とは、宇宙空間のすべて、かもしれないし、人体という宇宙のなかのDNAの記憶、なのかもしれません。あらわれるときは「無」もしくは「空」という状態で、言葉の結晶作品はその状態が生まれやすいと書きました。そこには、あるバランスが存在するからではないかと考えました。無作為で、エネルギーが高いものが生まれやすいバランスです。


結晶作品には大きく分けて三つの要素があります。「詩」と「書」と「造形」です。この三つのバランスが三位一体となって表現されているのが言葉の結晶作品です。

この三つのバランスというのは、ちょうど良く三つが集まっているというバランスではありません。
「詩」は「詩」として、「書」は「書」として、「造形」は「造形」として掘り下げて掘り下げて掘り下げたところに立てる柱、その三つの柱が交差する場所で繰り広げられる小爆発の結果です。しかも、爆発が起きるときには、掘り下げて掘り下げて得たもの、それら全てを捨て去ってもいい覚悟が必要です。偶然の線が次の爆発のきっかけになったり、言葉自体が治まる場所を要求してきたりします。掘り下げて得たものに執着しているとそれらを見逃します。だったら掘り下げなくてもいい気もしますが、掘り下げておいた方がいいです。なぜ掘り下げておいた方がいいのかは「書」を考察するときにまた詳しく書きます。とにかく、感覚を研ぎすませて、ヒントに耳を澄ませ、尚かつ力を抜いて、しかもそれらのことを忘れながら、ただただかいていくのです。そうすると、その三つが調和するときがやってくるのです。


そして、あらわれた作品を見てみると、書は書をとどめたまま造形にかたちをゆずり、造形は造形として存在しながらも書にかたちをゆずっています。そして両方が両方ともデフォルメされて、あらわれていて、何とも不思議な感じです。言葉はそこに存在しているはずですが、まるで言葉を発していないかのように内面に留まっているようです。読めないこころのうちなのか、それとも、どこかで誰かに触れられるまでは、たちあがらない宇宙空間を漂う何かのようです。
詩は書でもあり造形でもあり、書は詩でもあり造形でもあり、造形は書でもあり詩でもある、『平面でも立体でもない何か』になっているのです。



結晶作品がエネルギーを持つのは、書を書こうという意識と、造形を創ろうという意識と、詩を表現しているのだという意識が、それぞれに高められた三本の柱の交差点で、ゼロになっているポイントでできているからだと思います。そして、尚かつ、そこから一気にそれぞれの高めたポイントまで移動できるニュートラルなポイントであるからだと思います。


出来上がりだけを一見すると、文字が集まって絵にみえる、紙に描かれた二次元的な作品であると思うのが普通です。機械的に分かりやすく説明すると、確かに、文字が集まって絵になっています。
しかし、人間感覚的に説明するとそれはやっぱり違うのです。
「詩」と「書」と「造形」とで、時間と空間をこえて、こころのなかに描かれていくという表現がぴったりです。描かれている場所は見ている、その紙の上ではなくて、見ているそのひとのこころの中です。
三つの表現方法で表現されていることもあり、時間と空間を超えて、「詩」「書」「造形」それぞれの点と点がつながり線となり、面となって、こころに情景が描かれてゆくのです。
描かれてゆく情景は、展示場所、季節、展示風景でも変化しますし、感じる人間が変わっても変化します。同じひとが同じ作品を見て、同じように感じるとも限りません。
かいた本人すらも想像し得ないほどの情景がこころに描かれるのです。


「現れる」と同時に「洗われる」場合も多くあります。全てが報われる瞬間だからでしょうか、それともこの三位一体の表現に何か秘密があるのでしょうか?
次回は結晶作品の三つの主な要素、『詩』『書』『造形』『文字』『言語』などについてそれぞれ書いていこうと思います。



アートには様々な解釈があり、まさに、人間ひとりひとりが全て違うのと同じように、それぞれのアートにそれぞれの宇宙があるため、それはちょっと違うんじゃないかとか、意味分かりませんとかもあるかもしれませんが、作品の宇宙を探ったままに書いておりますので、ご容赦ください。
あなたの宇宙に置き換えて楽しんでいただけましたら幸いです。


前回は、藝術は分からないもの、不可知なものと書きました。
なぜかというと、それは宇宙から現れるからです。
宇宙というものは、いまだ、誰にも解明できておらず、分からないもの、不可知なるものです。
分かっている部分もありますが、分かっていない部分にくらべるとほんのわずかです。見えている部分より見えない部分の方が多いのです。そんな宇宙から現れてくるアートが分からないものであることは当然であると言えます。

重要なのは、宇宙から現れてくるということであろうと思っています。
創るのではなく、あらわれてくるのです。
あらわれたときに、そのアートは高いエネルギーを持ち、そこに見え隠れする叡智から、様々な情報を受け取ることができます。


書において、よく、作為が見えすぎる、とか無作為の書である、とか言われたりしますが、それが「創る」と「あらわれてくる」の違いと同質のものではないかと思います。作為と無作為については、書についての考察の折に触れてみたいと思います。


宇宙の一部があらわれてきているときには、表現者自体は「無」です。

「無」という状態なので、予測にしかすぎませんが、意識は宇宙とひとつか、この世にないか、もしくは人体という宇宙の奥か。あるいは、いま挙げた、全部か。

とにかく、創りましたという作為のものではない、あらわれてきたアートが生まれてくるためには、宇宙とつながっている「無」という状態が必要だという感覚があるわけです。

絶えず宇宙も人体も意識も変化していますので、あたりまえですが、アートも絶えず変化をすることを要求されます。そして、「無」だからといって、ただただ宇宙の波に翻弄されて漂う一枚の葉っぱにならないように、意識下で、やっておくことがたくさんあります。

そこで、前回少し触れた「ニュートラルバランス」なる言葉を思い、そのバランスが重要だなと感じていました。

今回「ニュートラルバランス」という言葉を使うにあたって、検索してみました。どうやら、サーフィンでもその言葉を使うらしく、トッププロサーファー達に共通する波に乗るときのバランスの位置で、いい波に乗って、乗ったあとのライディングやスピードがいいひとはみんなそのバランスなのだそうです。


やっぱり、宇宙の法則は全て一緒か、と、たまげました。無という状態がやってくることを波がくることに例えるとすごく納得できました。

まずはその状態がくるところまで行って、尚かつ、その状態がきたときにいいバランスにないと、その流れに乗れないのです。乗れたとしても、いいはしりができないのです。


バランスはひとそれぞれ、違いますし、表現、職業によって適したバランスの位置は違うとは思います。しかし、宇宙の法則が同じなら、何かのバランスを深く考察することで、そこから見えてくるものがあり、応用が効くかもしれないのです。

次回、言葉の結晶作品のニュートラルバランスを考察してみます。そして、一見、作為的にみえる言葉の結晶作品が、なぜ宇宙とつながる状態を生み出しやすい無作為のバランスなのかを考えてみます。







みなさまのおかげさまで、言葉の結晶展、開催、第十五回目となりました。
ありがとうございます。

少しずつ、作品について、想うところを文章化してみるということも、進めていこうと思っています。
表現や解釈は無数にあり、アートに関してはどれが正しく、どれが間違っているというものはないと思っています。
分かりにくいところもあるかとは思いますが、もしかしたらこうなんじゃないかと自由に楽しんで読んでいただけたら幸いです。



作品はひとつの宇宙であり、それを感じる側もひとつの宇宙であると思います。
素敵なケミストリーになることを祈りまして。。。



詩と書と画を同時に表現する、言葉の結晶作品は、
『詩』というエネルギーにも、『書』というエネルギーにも、『造形』というエネルギーにもアクセスできるように、絶妙なバランスを保ち三位一体となって成り立っている表現です。そのどれが欠けても成立しません。

それは、ただ単にそのような「技法」ということではなく、生命エネルギーの発露の結果です。
その発露の具合が、一見、爆発というよりは、結晶と呼ぶくらいなので、統合結合して輝くというエネルギーの発し方をしているわけです。

宇宙は大爆発からはじまって膨張と収縮を繰り返しているという話を耳にしたことがありますが、最初のインスピレーションが爆発だとすれば、結晶作品は、その初動エネルギーが、幾多の洗練の行程を経て、結合してできたエネルギーの塊みたいなものです。
そのインスピレーションは、詩から始まることもあれば、造形から始まることもあれば、書(線)から始まる場合もありますが、最終的にそれらが、紙に換算すると数百枚から千枚くらいの枚数を経て、ゆっくりと集まって、結晶化してゆくのです。



「詩」というエネルギーと、「書」というエネルギーと「造形」というエネルギーの結合、統合です。
この三つのエネルギーの話を個々にした方がよいのですが、始めたらそのひとつひとつがなかなか終わりませんので、また別の機会に書きたいと思います。。。


これらの考えには、科学的な根拠は全くありません。機会があれば科学的に検証していただけたらとも思うこともありますが、科学的な根拠はないほうがいいんじゃないかとも思ってしまいます。
感覚が全てだと思うからです。本当のところは誰にも分からないものなのかもしれません。
分からないからこそ、知りたいし、探求したいし、胸も高鳴るし、まだ垣間みたことのない景色を見てみたいのです。
その「分からない」ということと、「感覚」というところにこそ、他の分野にはない「藝術」としての役目があるように思います。


作品が生まれる瞬間は、作家そのものの感覚は「無」という状態であることが多いといわれますが、その場合の「無」というものを言い変えますと、それは、宇宙空間そのものか、生命の底、もしくは生命の始まる前、もしくは終わったあと、という状態です。
限りなく謎の状態です。
この世界がどのようにしてできていて、なぜ人間は今ここに存在しているのか、人体、脳、とはどういう仕組みなのかという謎が、完全に解けて証明されたことはありません。
藝術作品というものが本当にそのようなところからやってきているならば、分からないという感覚こそは大正解だと思うのです。


何か分からないものを、分からないまま表現できるのは、およそ藝術だけであろうと思います。「美」を介して表現されているという暗黙のルールはあるかもしれませんが、その「美」も何を美しいとするかは千差万別です。


「美」についても多くの方々が研究、発表、発信されていると思います。言葉の結晶作品の「美」という要素のひとつには「精神性」というところが深く関わっていきます。いきなり抽象的な話から始まったのはそのためです。それは言葉の結晶作品が「詩」と「書」と「造形」からなる三位一体の表現というところとも深く関わっています。
その美意識、及び精神状態を『ニュートラルバランス』と呼んでいます。
次回はその「ニュートラルバランス」や「無」について書きたいと思っています。



言葉の結晶展開催のお知らせです。



桑名会場:五大茶屋  後援:「日野原重明先生『いのちの授業』普及活動 エフ・フィールド」

〒511-0074 三重県桑名市南寺町45

駐車場 商店街利用者無料駐車場あり



2014年 3月1日(土)~16日(日)



10時半~16時 

定休日(月)(火)9日

作家在廊日 (木)(金)(土)(日)

*2(日)12時~14時半 の時間帯はコンサートのため貸し切り 
 9(日)終日はエフ・フィールド講師育成会のため貸し切りとなります。

高山会場:遊朴館

〒506-0084 岐阜県高山市上一之町26番地えび坂下
tel 0577-32-8883



2014 3月20日(木)~25日(火)



営業時間 10時~17時

定休日 (水)

作家在廊日:全日

駐車場 専用駐車場あり



作品展示はまだ観たことがないという方のため代表作と、新作とを織り交ぜて展示する予定です。
ご家族、ご友人お誘い合わせのうえ、楽しんでいただけましたら幸いです。
尚、会場では、ご希望の方にコトバの花「コトバナ」の実演販売も行っております。ご希望の方は作家在廊日をご確認ください。










博物館明治村 帝国ホテル中央玄関ロビーにて

Drums 音鼓義男 カケル 書 小林勇輝

流れのままに、しかし、ぶれることはなく、力強く進んで生こうという、勇気の発露。

素敵な風が吹きますように。






作品はしばらくのあいだ、博物館明治村内、帝国ホテルのロビーにて展示させていただくことになりました。

応援にかけつけていただいた皆様本当に有り難うございました。