「詩」や「書」や「造形」など、作品を構成している要素について書く前に、この作品に社会に対するなんらかの役割があるとしたら何であるのかということが頭をよぎりましたので、そのことについて少し書こうと思います。以前、作品が「あらわれる」と書きましたが、どこからあらわれるのでしょうか、何も無いところからだけ生まれるのでしょうか。それだけのはずがありません。何かの意識、誰かの意識、感じたこと、見てきたこと、知っていること、そのようなところからも生まれているはずです。世界で起こっている何か、どこかの場面、誰かの意識、そのようなものが切り取られて昇華され作品となっているのではないかと思います。「私」のことを書いたように思っていても「あなた」のことを書いているかのように感じたりするのは、ことばというものの不思議ももちろんありますが、「私」も「あなた」も「誰か」も「世界」もどこかできっとつながっているからではないでしょうか。

藝術作品や藝術家は、社会や世界が育てる、あるいは社会や世界から育てられる、という風に形容されたりします。それは、その時代だからこそ、そのような表現が生まれているという時代背景があるからです。
専門家や愛好家の方には別として、昔のままの表現の古典藝術が現代の一般に生きている人々にストレートに響きにくいのは、時代は絶えず変化しているのに、その時代に合わせて表現が変化していないからだと思います。もちろん時代が変わっても変わらないものや価値観、表現があり、そんな作品を生みたいと思っていますので、古典藝術をないがしろにしていいと言っているいうわけではありません。特に書道藝術にとっては、古典は「今」を表現するために欠かすことのできない大事な要素です。それは「今」という瞬間が、過去に生きたご先祖様がいないと存在しないのと同様に、その藝術作品が藝術作品として存在できるのは、途方もない数の先人達がいのちを削ってその藝術を切り拓いてきた歴史があるからです。
そう思うと書跡を残してくださった方々へは、ご先祖様と同様に感謝と尊敬の念を抱かずにはいられません。そのように考えると臨書はお墓参りのようでもあります。
感謝をすることで、過去に在ったいのちの才気が、今を生きるいのちを応援してくれることもあるかもしれません。
遡れば全ての起源はつながっています。DNAの奥底でその才気がフタを開けてくれるのを待っているかもしれません。

先人には敬意を払い、感謝もしますが、しかし「今」を実際に生きることができ、「今」を感じて表現し、「今」という時代を担えるのは、「今」を生きているいのちだけです。
当たり前かもしれませんが「今」という時は、「過去」ともつながっていて、「未来』ともつながっています。本当に当たり前につながってきて、つながってゆくのでしょうか。「当たり前」という言葉の反対の言葉は「有難い」であると聞きました。感謝をすればするほど様々なことが当たり前のことではないように思えてきて、だからこそ、この世界に在るという奇跡の瞬間を使って、その限られた時間のなかで何を切り取るのか、何が表現できるのか、この藝術でしか、このいのちでしか出来ない役割は何であるのか、そのような問いが無意識に発せられ続けます。そしてそのことは作品が生まれてゆくきっかけともなってゆきます。

現代もうすでに、あるいはもっと先の未来においてかもしれませんが、すべてのひとが、藝術家と同じように創造性が要求されることがあるかもしれません。過去、現在、未来をつなぐ創造性です。
現代においては、誰しもがその創造性を共有し発信することが可能であるので、ひとりひとりが世界に与えうる影響はますます大きくなってゆくことでしょう。
そんなときに大事にされるのは機械では判断できない人間的な感覚であると思います。
そのような人間感覚を呼び覚ますこと、調和の世界を模索すること、かたより過ぎないバランス、これらは冒頭であたまをよぎった、結晶作品の社会に対する役割であると考えています。
いのちをかけて、実験的に挑みながらそれらの価値観を試し、その漠然とした未知なる価値観を美として表現し、なんとかかたちにすることで、あるときは旗ふりとなって、またあるときは世界の鏡となり、より喜びの多い世界を創造するための叩き台であれたらと思っています。そして作品に触れてくださったひとが身も心も豊かになってくださったなら、作家冥利に尽きるのかなと思います。