第17回 神と鬼の不思議関係 | お試しブログ

第17回 神と鬼の不思議関係

2010年4月1日
相模原市は、全国で19番目の政令指定都市へ移行したのに伴い『緑 (みどり) 区』を設置する事になりました。

ー?→

相模原市は神奈川県北部にある政令指定都市。

相模原市は「緑区、中央区、南区」3区で構成され、旧・津久井郡 (旧・城山町・津久井町・相模湖町・藤野町) も緑区』に編入したようです。

八王子市 (東京都) と 上野原市 (山梨県) に隣接する 旧・津久井郡は、江戸時代後期から昭和初期にかけては『養蚕と織物産業』が発展した。
道志川を境に北西側の上津久井(旧・藤野町・相模湖町)と南東側の下津久井(旧・津久井町・城山町)に分けられる。上津久井は甲州街道(国道20号)やJR中央本線を介して、織物産業との関連から東京都の八王子と、また西に隣接する山梨県の上野原との結びつきの強い地域である。一方の下津久井は歴史的にも旧・相模原市と関係が深い地域が多い。との事。

竹。。


神奈川新聞 2011年12月14日 12:00
【養蚕業よ永遠に】
1500年の歴史刻む記念碑建立 / 相模原

助成金の打ち切りなどから、昨秋に県内の全農家が廃業した養蚕業。生産が盛んだった県央・相模原地域の中でも、1500年に及ぶ伝統があると伝えられてきた旧・津久井郡の養蚕の歴史を後世に伝える碑が、JA津久井郡串川支所(相模原市緑区長竹)に建立された。13日に除幕式が行われ、関係者は「廃業はさみしいが、伝統を形に残すことができてよかった」と胸をなで下ろした。

江戸期にまとめられた「新編相模国風土記稿」によると、旧・津久井郡の養蚕の起源は5世紀の大和朝廷の時代までさかのぼるという。当時、蚕の採り方を工夫した旧・藤野町の佐野川の住人が、平地を求めて現在の八王子付近に桑を植え、それを周辺の国に配って養蚕が行われたと伝えられてきた。

明治初期には郡内全農家の約8割、3400戸が養蚕を行っていたという記録がある。戦後は国産生糸需要の低迷などから徐々に減少。近年は輸入品に押されながらも、国が繭代を穴埋めする助成金に助けられてきた。


しかし、2010年度を最後に助成金の打ち切りが決定。旧・津久井町に2戸、旧・相模湖町で1戸、県内では他に9戸が残っていたが、昨年の従事者の平均年齢は78歳。12戸で話し合い、高齢化や後継者不足などもあって、昨秋の繭の出荷で全戸が廃業した。

碑は生産農家でつくる津久井町養蚕振興協議会が伝統を残したいと、これまで積み立てていた予算で製作。高さは約1・5メートルで、起源から廃業までの歴史が刻まれている。

ー (・・; 再び;→

養蚕や絹織物が盛んで「桑の都」と呼ばれた東京都八王子市に隣接する神奈川県相模原市にも、かつては4千軒近くの養蚕農家があった。生産された繭や生糸は、主に八王子 (東京都) や上野原 (山梨県) などへ出荷されたほか、「絹の道」を通って横浜へも運ばれたという。しかし現在、市内に残る養蚕農家は数軒。親子代々伝えられてきた伝統技術は忘れられていく運命にある。

この相模原で、養蚕文化を守っているのは一人のカナダ人だ。都県境にそびえる陣馬山。ふもとに広がる同市緑区の旧・藤野町佐野川地区に、ブライアン・ホワイトヘッドさん(46)は1993年に移り住んだ。

養蚕農家だった築約120年の古民家を借りた。2、3階は蚕の飼育室という典型的なつくり。ここを拠点に、毎年、餌の桑を育て、卵から蚕を育てて繭をつくり、糸にほぐして染色、織機で織り上げるまでを1人でこなす。
(朝日新聞2010年05月21日)


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津久井 つくい
神奈川県北西部、津久井郡にあった旧町名(津久井町)。現在は、相模原市の西部を占める緑 (みどり) 区の一地域。1955年(昭和30)中野町と串川 (くしかわ)、鳥屋 (とや)、青野原、青根の4村と三沢村の一部が合併して津久井町が成立。2006年(平成18)相模原市に編入。旧町域は、大部分が丹沢山地、北東の一部が関東山地で、津久井湖畔や道志川沿岸には河岸段丘が発達している。国道412号、413号が通じる。古くから 相模 (さがみ) 甲斐 (かい) を結ぶ交通の要地をなし、鎌倉時代には三浦一族の筑井義胤 (つくいよしたね) の築城による 筑井城(津久井城)があり、三増峠 (みませとうげ) は戦国時代に武田氏・後北条氏が戦った三増合戦で知られる。江戸時代に入って養蚕、製糸、絹織が盛んとなり、後期には中野地区は八王子と並ぶ絹市場として知られた。いまは組紐 (くみひも) など機業のほか酪農、林業も行われているが、第一次産業は減少している。民俗芸能の鳥屋の獅子舞 (ししまい) には神事舞踊の特色がみられ、県指定無形民俗文化財、青根の諏訪社の大杉は県指定天然記念物である。ー・・→  北東部の 城山(津久井城跡)南麓の根小屋には城主の居館跡や家臣の屋敷跡が残っている。2000年(平成12)中津川に宮ヶ瀬ダムが完成した。[浅香幸雄]
『『津久井町郷土誌』総集編(1986・津久井町) ▽『津久井町の歴史今昔』(2000・津久井町)』

竹。。

城山 (しろやま) は、神奈川県相模原市緑区にある山である。標高375m。津久井城山(つくいしろやま)とも呼ばれる。

城山の中心部分は相模原市緑区根小屋に存在するが、旧・津久井郡に属していた城山町(現・相模原市緑区)の名は城山の東の麓にあることに由来する。

鎌倉時代に 三浦氏一族の 筑井義胤 (つくいよしたね) が築城、戦国時代には 小田原の北条早雲 (後北条氏) が 甲斐の武田氏に対する前線拠点とし再整備、江戸時代には 徳川家の直轄領とする陣屋が置かれるなど。甲斐と小田原、江戸を結ぶ要所にあったといいます。

竹。。

相模原市緑区の大半を占める旧・津久井郡の語源は、津久井城 (筑井城) を築城した筑井氏を由来しているようです。

ー !? →

ところで!
相模原市が『緑 (みどり) 区』を設置する前に ⇔ 横浜市から反発意見が出ていたといいます。

その理由は、
横浜市にも『緑 (みどり) 区』があり、
━─きしゃ。━─ JR横浜線 ━─きしゃ。━─ 紛らわしいとの事。

ー(・・? ー?→

 →  ?

竹。。

その昔、
横浜市緑区も武蔵国都筑郡 ← 国と国の境界線にあったといいます。

(・・? やはり?
国と国の境界線には「筑 (つく / チク) 』の文字を由来とするケースがよく見られるように思います。

ー てんびん座 ー てんびん座 →

相模原市緑区長竹にも白山神社
相模原市緑区長竹 (旧・津久井郡) も、
横浜市緑区白山 (旧・都筑郡)も「筑 (つく / チク) 』の文字を由来としているようです。

ー?→

(・・? もしかすると!?
津久井城 (筑井城) の通称・城山も『白山』を由来としているのか? 近くには青 (あお)? の文字が見られ、あの事とも関連しているのかと思い、少し調べて見ました。
白山



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江戸時代初期の1663年(寛文4年)~1684年(貞享元年)に津久井領全域が久世家の領地(1669年(寛文9年)から関宿藩)となり、また幕末期には相模川以南の村の多くが小田原藩領となっていたが、それ以外は旗本知行地となった幾つかの村を除き幕府領であった。1691年(元禄4年)にこの地域を支配した幕府代官・山川貞清によって正式に愛甲郡および高座郡から分離され、津久井県と称することとなった。


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江戸時代初期に津久井郡を領地としていた久世氏は、下総国関宿藩(現・千葉県野田市)藩主、譜代大名の家系。
関宿藩は 下総国 (いま千葉県野田市関宿三軒家) に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の茨城県猿島郡境町にあたる地域をも城下町とした。

利根川と江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため信頼の厚い譜代大名がその藩主に任じられた。

ー・→

関宿藩は、下総国葛飾郡猿島郡を領地とする藩で、藩庁は関宿城

ー?→

ご迷惑をおかけします 気になる文字 ご迷惑をおかけします
中野村、太井村、又野村、三ケ木村、根小屋村、長竹村、青山村、鳥屋村、青野原村青根村(それぞれ単独村制)

1909年(明治42年)
青山村・長竹村・根小屋村が合併して串川村が発足。

1955年(昭和30年)
内郷村・小原町・千木良村・与瀬町が合併して相模湖町が発足。

川尻村・湘南村および三沢村の一部が合併して城山町が発足。

中野町・串川村・鳥屋村・青野原村青根村および三沢村の残部が合併して津久井町が発足。

ー (・・? ー?→

相模国津久井郡 と 下総国葛飾郡猿島郡? 武蔵国都筑郡 てんびん座 ともに国と国の境界線にあつて竹。。 ある共通点が見られるように思います。
白山  

ご迷惑をおかけします 第13回 お話 ご迷惑をおかけします
醤油の里 ≒ 野田市 (旧・関宿村) 周辺は、かつては白山信仰の盛んな地域であったといいます。

白山信仰には青』重要な意味があるようです。



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 ー 青砥 (あおと / 青戸) ー
青砥 (あおと) 駅は、東京都葛飾区青戸三丁目にある京成電鉄の駅。

武蔵国都筑郡青砥 (あおと) 村は古くは「青戸」とも書いた。明治20年代から副業として養蚕業が行われるようになり、大正時代から東京・横浜の消費地向けに野菜の栽培が盛んになる。現在は 横浜市緑区青砥町という住所。

葛西 (かさい) 城は 現在の東京都葛飾区青戸にあった城。

武蔵国都筑郡は、
川崎市麻生区の1部と横浜市緑区、横浜市青葉区と。分別しているようです。
やはり? 白山  

相模国 (みどり区)、甲斐国 (上野原市) と 武蔵国 (八王子市) も国と国の境界線では白山信仰が普及しており、3地域とも てんびん座 かつて『養蚕と製糸業』が盛んという共通点が見られます。

ー (・・? ー?→

もしかすると? 
甲斐国の「上野原市」 は『上野国』と関連しているのか? 思えて来ました。
上野国も『養蚕と製糸業』が盛んで、白山信仰が普及していたようです。

ー?→

富岡市は、上野国 (群馬県) 南西部の市である。江戸時代に中山道の脇往還の宿場町であり、加賀藩前田氏の支藩である七日市藩の城下町として栄えた。1872年(明治5年)に日本で最初の官営の製糸工場、「富岡製糸場」がこの地で創業した。 上野国一宮、貫前神社が置かれている。

七日市藩は、上野国甘楽郡(現在の群馬県富岡市七日市)に存在した藩。

上野国・七日市藩の初代藩主は加賀国・加賀藩の前田氏、

甘楽 (かんら) 郡は下仁田町と富岡市に。

群馬県甘楽郡下仁田町白山

群馬県富岡市上丹生に白山神社

丹生 (にゅう) 村は、群馬県の南西部、甘楽郡に属していた村。現在の富岡市丹生地区に相当する。

ー (・・? ー?→

やはり? あの事と関連しているように思えて来ました。



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 ー 権現社 → 神社 ー
白山権現社は 白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。
717年(養老元年)修験者・泰澄 (たいちょう) が加賀国(当時は越前国)白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)に登って瞑想していた時に緑碧池(翠ヶ池)』から十一面観音の垂迹である九頭龍王(くずりゅうおう)が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って顕現したのが起源で、併せて白山修験場開創の由来と伝わる。

緑碧池(翠ヶ池)』 ← なんと読むの?

へき‐しょく【碧色】
青色緑色。また、

ー?→

すい【翠】
[音]スイ[訓]みどり
1 鳥の名。翡翠 (カワセミ)
2 宝石の「翡翠 (ひすい )
みどり。「翠黛 (すいたい)・翠微・翠柳・翠緑」

竹。。

泰澄 (秦氏) が作った山岳信仰 (日本版・道教) で、越の国や美濃国、播磨国などで流行。

泰澄は越前国麻生津 (福井県) で生まれ、加賀国(当時は越前国)白山緑碧池(翠ヶ池)』で、 
目 九頭龍王 (くずりゅうおう) を目撃 目 その後、白山信仰を・・。との事。

ー (・・? ー?→

武蔵国都筑郡は?
川崎市麻生区の1部と横浜市緑区、横浜市青葉区と。分別。

泰澄は越前国麻生津 (福井県) で生まれ、加賀国(当時は越前国)白山緑碧池(翠ヶ池)』で・・?

ご迷惑をおかけします 第16回 お話 ご迷惑をおかけします
筑 (チク / つく) 』は 竹製の楽器で「琴 (こと) 」と似ていたようです。

『筑』の文字は防人 (さきもり / 崎守) → 先導神・猿田彦とも縁があり、猿田彦は「畏怖の神」という属性もあると云われています。
*筑 → 恐 → 都を

竹。。

(・・? 竹 → 筑 はてなマーク
武蔵国都筑郡には 麻生区白山、青葉区元石川町新石川町横浜市緑区白山。住所があります。

(・・! もしかすると?!
白山信仰の開祖・泰澄 (加賀国の人) と関連しているかもしれません。

ー 注意 →

カゼ 考えすぎかもしれませんが あせる
国と国の境界線は市 (いち) / 交流が行われる地であると同時に てんびん座 緊張伴う地域。鎮魂の思い ← 猿楽芸も行われていたかもしれません。

ご迷惑をおかけします 第8回 お話 ご迷惑をおかけします
そうした防人たちは、職業軍人 (武士) ではなく兼業兵士 (防人) で、竹細工職人も多くいたようです。https://ameblo.jp/yuukata/entry-12409453253.html