後ろの正面 その4 | お試しブログ

後ろの正面 その4

5胡16国時代 ~ 北魏の時代ころ、鮮卑族 (遊牧民) が「漢民族』した お話をして見ました。
*遊牧民 → 定住民 化

それは東洋での お話ですが、
ちょうどその時期 てんびん座 西洋でも「遊牧民」『定住民』する現象が起きていたようです。
*東洋でも西洋でも類似現象



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その昔

西洋には、西ローマ帝国 と 東ローマ帝国があったようです。

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東西ローマ帝国の北方には、
ゲルマン族と呼ばれる狩猟的な「農耕民 / 遊牧民」が住んでいました。https://ameblo.jp/yuukata/entry-12325860064.html
*ゲルマン族 ≒ 半遊牧民

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4世紀 (375年) ~
アジア系の遊牧民・フン族が ← 征西 ← (西進) ← を開始した。

 ← それに伴い ← 
 ← 玉突き現象が起き ← 複数のゲルマン系 諸民族は ↓ 大移動 ↓ (南進) ↓ を開始した。

 ↓ ↓ ↓ ↓

昔の教科書には「ゲルマン民の大移動」と載っていました。


*ゲルマン人という総称の中にも、フランク人やノルマン人、アングロ人、サクソン人、ジュート人などの多種多様な民族が含まれているようです。


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ゲルマン族 (半遊牧民) の大移動がキッカケとなつて、西ローマ帝国は崩壊したと云われています。

後ほど、
西ローマ帝国の領土内に侵入して来たゲルマン系 諸民族は各地に、フランク王国、ヴァンダル王国、東ゴート王国、西ゴート王国、ランゴバルド王国などを建国した。そして、それらのゲルマン系諸国はすぐに滅亡したけど、唯一残ったのがフランク王国 (ゲルマン系の国) であったといいます。
後ほど フランク王国は、仏国、独国、伊国に分国します。

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(・・? そのとき !はてなマーク
ゲルマン系のフランク王国はローマ したといいます。

ゲルマン族 (半遊牧民) の大移動 がキッカケとなつて、西ローマ帝国は崩壊したけど ⇔ ゲルマン系のフランク王国は「ローマ』した?はてなマーク ちょうどその時期 てんびん座 東洋でも、鮮卑族 (遊牧民) が「漢民族していました。
*遊牧民 → 定住民 化

同時期に てんびん座 東洋でも西洋でも類似現象が起きていました。その事は、権力の座を得る事よりも ⇔ 権力の座を維持する事の方が難しい事を物語ているようにも見えます。

そうした「勝者と敗者の不思議な関係』起源をさかのぼると?はてなマーク 古代のペルシア帝国に たどり着く と云われています。



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紀元前550年、
ペルシア系遊牧民がオリエント地方にアケメネス朝 (ペルシア帝国) を建国しました。
アケメネス朝 (ペルシア帝国) の首都はペルセポリスで、石の彫刻技術など。石の文化が特徴的です。



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これまで「遊牧民」であったペルシア人が『定住民』になるのですが、アケメネス朝のペルシア人 (支配層) は、征服した国々 (異民族) の文明や信仰を吸収する寛容 (かんよう) 策を行いました。

ご迷惑をおかけします 寛容 (かんよう) 策とは ご迷惑をおかけします
これから新たに国を支配する側 (遊牧民) が、これまで現地 (定住民) で行われていた文明や信仰を認める。という柔らかい統治政策で、公用語をペルシア語よりもアラム語に重きを置くなどしたようです。

(・・? どうやらはてなマーク
当時、オリエント地方ではアラム語が浸透していたようで、征服民 (ペルシア人) はペルシア語の強制ではなく → 引き続き → アラム語の使用を認める政策もしたようです。その辺りは ひらめき電球 後ほどの鮮卑族 (征服民 / 遊牧民) が「漢字 / 漢語」の使用など「漢民族』した お話と似ています。

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アケメネス朝 (ペルシア帝国) の壁画には異民族が貢ぎ物を運んで来る絵が描かれているといいます。

そこには多種多様な異民族。

(・・?はてなマーク

中には、異民族と異民族が手を繋ぐ 長音記号2 絵も描かれているようです。

ペルシア帝国のコロッセウム

アケメネス朝 (ペルシア帝国) は石の彫刻技術など。石の文化が特徴的で、後ほど登場するギリシャ彫刻にも影響を与えているようです。




アケメネス朝 (ペルシア帝国) の隣にはポリス世界というギリシア人が住む複数の都市国家がありました。
アケメネス朝 (ペルシア帝国) はギリシア系の人々が住む都市国家 (ポリス世界) に度たび進入し、戦争にも発展しました。

ペルシア戦争で、マラトン が マラソン (伝令) をした。と事はよく知られています。

アケメネス朝のペルシア人は、1部支配したギリシア人の文明や信仰を吸収する寛容 (かんよう) 策を行いました。
*ペルシア人のギリシア化

ー・→

後ほど、ポリス世界とは異なるギリシア人の国・マケドニア王国 の  アレキサンダー大王東方遠征 (ペルシア遠征) 』を行い →  アケメネス朝 (ペルシア帝国) を亡ぼし → さらに領土拡大をして行きます →
その時、マケドニア王国 のギリシア人は、亡ぼしたペルシア帝国の女性と政略結婚したり、ペルシア由来の文明や信仰を吸収するという「寛容策』を行いました。
*ギリシア人のペルシア化


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 マケドニア王国 さらに → ガンダーラ地方まで手を延ばしました。https://ameblo.jp/yuukata/entry-12303524797.html

後ほどアレキサンダー大王が亡くなると、アルゲアス朝 (マケドニア王国) は、
アンティゴノス朝 (マケドニア王国) とプトレマイオス朝 (エジプト王国) とセレウコス朝 (シリア王国)。←『ヘレニズム3王国』に分別します。
*ヘレニズム ≒ ギリシア風

セレウコス朝を建てたギリシア人のセレウコスはアレキサンダー大王の部下で、ペルシア人女性と政略結婚をしていたので、その子 / 後継者であるアンティオコス1世は、ギリシア人ペルシア人「合子』であったようです。

(・・;  後ほど ; セレウコス朝 (シリア王国) から、バクトリア王国 (ギリシア人の国) とパルティア王国 (ペルシア人の国) が独立しています。
*ギリシア人とペルシア人は融合した後 → 分別



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(・・; 後ほど ;
ポリス世界 (ギリシア系) の子孫 ≒ ローマ帝国 と アケメネス朝 (ペルシア帝国) の子孫 ≒ パルティア国 (ペルシア帝国) は再び隣り合う形になります。
*第2ラウンド?

パルティア国 (ペルシア帝国) はミトラス教に重きを置く国で、パルティア国の人々は、となりのローマ帝国にも度たび進入し、ローマ帝国でもミトラス教を流行させていました。

ミトラス教は、西洋ではミトラ信仰 ⇔ 東洋では弥勒信仰などに混合して行きます。


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(・・? 内容は複雑していますがはてなマーク
1.ペルシア人のギリシア化 → 2.ギリシア人のペルシア化 → 再び、ペルシア人とギリシア人の分別。と事を繰り返しています → 

ひらめき電球

ひらめき電球 上記の文に!? 気になる部分が見られました。
マケドニア王国 (ギリシア人の国) は、ペルシア帝国を征服した後、ペルシア人の女性と政略結婚し → ガンダーラ地方まで手を延ばしました。https://ameblo.jp/yuukata/entry-12303524797.html

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ある日のブログでは、

ガンダーラ地方  → 西域 → 中国 → 朝鮮 → 日本に仏教が伝来している事を載せて見ました。https://ameblo.jp/yuukata/entry-12411793800.html

石信仰 ≒ 星信仰。の お話にも結び付きます →