2回めの同化政策 | お試しブログ

2回めの同化政策


ーはじまり→


それは今ではとても信じられない光景ですが、

むかし、沖縄の屋台の祭り開場で ヤクザ風のおっさんが、酔っ払い「鶴太郎を死なせ、内地の人を死なせ」と暴れ回り複数の警察官におさえられていました。*死なせ は 殺せ と意味。

ヤクザ風のおっさんは、酔っ払いはしていましたが、その感情は本物で、また似たような感情を持つ人はけっこういました。



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むかし、モノマネタレントの片岡鶴太郎が「ちょっちゅね」とボクシング世界チャンピオン・具志堅用高のモノマネをしていたようです。

モノマネタレントの片岡鶴太郎、世界チャンピオンの具志堅用高、両者とも今と昔で まるで「別人」のようでした。

沖縄では世界チャンピオンの具志堅用高は神様とも云われ、現役時代 / 過去の映像が何度か流れていました。

具志堅氏は今では、陽気でとても明るい感じの人ですが、現役時代 / 過去の映像を見ると、引っ込み思案風で沖縄鈍り、女性的な小声で話し「そうっすね」が 口ぐせ のようでした。

どうやら、
モノマネタレントの片岡鶴太郎が「そうっすね」を『ちょっちゅね』とモノマネしていたようです。

それは今では笑い話ですが、当時は具志堅氏は本気で怒り、同じく怒る人が沖縄県内にもいたといいます。

自分は そのモノマネ映像を見たこと? 記憶 ありませんが、80年代 / 小学生ころ、女子プロレスのダンプ松本に対して、モノマネタレントの片岡鶴太郎が下唇を尖らせて怒らせているテレビ番組を見たことあります。

当然ながら それは冗談で、お笑い番組 / 範囲での出来事ですが、時代によつて、その行動が殺人事件にまで発展しかねない場合もありました。


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世界チャンピオン具志堅用高の現役時代は、沖縄県が日本に 本土復帰した1972年頃と重なるので、今と昔で その時代の「空気」がまったく違っていたようです。

沖縄県が本土復帰した時代は、内地 (日本の本土) の人に「沖縄の人は英語を話すのか?」とか、新しい日本人、遅れた日本人など、空気を感じたと主張する人もいました。

例えば、片岡鶴太郎が沖縄の「なまり」をバカにしている → 内地の人が沖縄をバカにしている。まだ 70年代には そうした「空気」が流れていたのかもしれません。

その事と少し意味は違いますが、
あの時、京都大学の助教授・河上肇 (はじめ) が「沖縄は異国情緒溢れる島だ」とのニュアンス言葉で、沖縄島を追い出された事と似ています。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12213274376.html

「異国情緒」←『沖縄が異国とは何事だ、』と「空気」が流れる時代がありました。



ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中




実は、そうした「空気」を生んでしまったのは、学校教育での ゆきすぎた同化政策 / 方言札、方言撲滅運動にも一員があったかもしれません。

https://www.amazon.co.jp/沖縄の方言札―さまよえる沖縄の言葉をめぐる論考-井谷-泰彦/dp/4899821050


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「方言札制度」
沖縄県では、明治の終わり頃と沖縄県が日本に本土復帰 (1972年) する前の1960年代に、同化政策の一貫として「小学校や中学校で『方言』を禁止する」方言撲滅運動が行われていました。

学校で沖縄の言葉 / 方言を話した生徒は「方言札」という木札を首からぶら下げて『わたしは方言を話しました。明日から話しません』と書かれた紙とともに、廊下で ひざまづき させられたようです。

http://bonin.ti-da.net/e780858.html



そのためか?
1960年代に小学生か中学生だった人々は、沖縄の言葉 / 方言を話せない人が多くいます。そして、その年代で方言を話せる人は不良だったとも云われています。



ーおしまい→