「うそ」から見える「日和見菌」 | お試しブログ

「うそ」から見える「日和見菌」

前回のつづき ?かもしれないお話をします。


あれから 、「おに」と呼ばれる人々は、「隅」や「山」へ逃げました。「すみ」や「やま」は「海うみ」とも繋がっていました・・「おに」、部落、落ち武者、落人、客家、よそ者、ディアスポラ、離散、難民、外地、エタ、非人、水軍、倭寇、海賊、アウトロー、そして、ヤクザにイルミネイト?はてなマーク


ヤクザは、古い日本語を使う→縄張り=「シマ」という、沖縄でも集落の事を「部落」または「島(シマ)」とか「間(ま)」という→陸続きであっても、隣り部落の事を「シマ」といいます。


地図帳で、沖縄本島を見ると繋がっているように見えますが⇔昔の「那覇」は、離島でした


お試しブログ
昭和初期ころ、那覇市、首里市、真和志村、小録村が合併して「那覇市」となりました⇔現在でも「旧小録村の人」は、那覇の町へ出かける時、「那覇へ行く」といいますあせるやはり、古い言葉を使います・・宮古島の人も「沖縄へ行く」と言うようです。本土の事を「ヤマト」とか「内地」ともいいます。「内地」とは、少し古い日本語で、旧満州、北海道、沖縄は、「外地」と呼ばれていました。


「隅」や「山」には→そして、「海」にも、古い日本語、神道、風習も残っています

お試しブログ

めんそうれ=参り召しおわれ→いらっしゃいませ、



お試しブログ-SN3F0643.jpg


またん、ちゃーびらさい=また、きはべらさい?→また、お会いしましょう



お試しブログ


また、浮島=旧那覇には、琉球王府より特別な扱いを受けた「琉球八社」という八つの古い神道があります。


━─━─↓↓転載する↓↓━─━─━─


波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・安里八幡宮・天久宮・金武宮が琉球八社です。祭神には、安里八幡宮のみ八幡神が祀られ、それ以外は熊野権現が祀られています。全て真言宗寺院の境内に鎮座していた。
八社信仰は、真言密教の?特に、臨済宗の影響を強く受けている。再興?沖縄古来の信仰(アニミズム・ニライカナイ信仰やアマミチュー信仰など)を土台にし、従来からあった古琉球の聖地=御嶽(うたき)を神社に見立てて・・・


━─━─↑↑転載した↑↑━─━─━─


「壇ノ浦」に面する。瀬戸内海は、「平家側」の地盤であったが⇔伊予「河野水軍」の八幡船、紀伊「熊野水軍」の?・・は「源氏側」についた。そして、四国は秦人(はたびと)=「弘法大師・空海」真言宗の地盤でもあった?熊野には、秦氏=徐福(ジョセフ)伝説がある。 秦氏(はたし)が伝えた八幡神→ヤハタ神→ユダヤ?はてなマーク


沖縄では、お祈りする時「うーとーとー」といいます→多神教説では「大(うふ)尊(とうと)い」が訛った⇔一神教説では「あートート神よ」と言っている?オリエンタル文明の「トート神」と「ライオン」が「うーとーとー」と「獅子」に変化した?

お試しブログ

↑左側は昔の那覇(久米村、泊村)という浮島で、現在は両方「那覇市」になっています。


お試しブログ
現在は埋め立て、橋、合併でわかりにくくなっています。



お試しブログ
離島と言っても、干潮の時には歩いて渡れたようです


浮島と呼ばれた、那覇の港には「久米36姓」という客家人、帰化人、日本人の寄留する地域がありました。
「久」は「人」に「カギ」をかけて・・官吏・役人・留学生が多く住んでおり、琉球国は、久米人の協力なしには、交易船を走らせる事、国政を司る事もできませんでした。

特に、久米36姓は、司法、行政、立法、軍事力まで、国政・国庫・を左右しており、ビジネス、品情報、決済方法、航海法、国際情報、貿易ネットワーク、

交易のプロと言われた客家人は、国際情報をどうやってつかんだのか?


━─━─━─━─━─


「日ゆ同祖論説」が、明治頃から、消えて、現れて、もてはやされています。伊勢神宮「カゴメ紋」に刻まれた石灯籠が並んでいて、これはユダヤのダビデ王の紋章?という説は、敗戦直後、GHQにより皇室とユダヤを暗示する工作が行われたようです⇔ただ、本当ではないが「うそ」でもない?はてなマーク

信者のユダヤ教徒は「白い人」が多いが⇔血統のユダヤ人は、アジア系が多いようです。


「日ゆ同祖論」と似たお話で、「日鮮同祖論」、「日琉同祖論」という「源為朝(ためとも)」伝説があります。

沖縄県の今帰仁(なきじん)村という所に、「運天港」という港があります。


琉球王府の正史「中山世鑑」には、「保元の乱」で、「平清盛」に敗れ、伊豆大島に流刑にされた「源為朝(ためとも)」が「運」を「天」に任せて辿り着いた。そこが「運天港」で、その遺児が「中山国の舜天王」となった。と書かれている。


お試しブログ


平清盛の日宋貿易ルート→神戸、瀬戸内海、南西諸島から見えるように、瀬戸内海は、平家の地盤でした。

壇ノ浦に面する「伊予の河野水軍」がいました。平家の平清盛は「公家に近い武士」、平家の地盤「瀬戸内海」の一部、北条氏は「武家に近い平家」で、内紛が起きていました。平家の「北条政子」は、源氏の「源頼朝」と結婚しています。河野水軍の河野通信は、「北条政子」の「妹」と結婚している。「源為朝」は、伊豆に流る前、その河野水軍に救出され、琉球へ連れてこられた?といも伝えれ、源為朝の霊廟・光明寺が、滑川に・・・


「中山世鑑」は、薩摩支配下の正史、幕藩体制に組み込まれていった琉球は、源氏の徳川幕府のもと、同じく源氏の薩摩に従属する理由づけで・・・という伝説であるようです⇔ただ、この伝説も「本当」ではないが「うそ」でもないようです?



お試しブログ
水軍とは、海賊、倭寇の前身で、黒潮の流れに沿って、薩摩坊津の市来水軍、熊本の菊池水軍、長崎の松浦水軍、福岡の宗像水軍、瀬戸内海の村上水軍、伊予水軍、葱名水軍、紀州の熊野水軍、九鬼水軍、北条水軍など・・・という風に、経済活動、戦争のみならず、海の動脈・物資、人間の輸送の権限を握っていました。その後、その影響力を恐れた豊臣秀吉の海賊禁止令、徳川家康の鎖国令によって、勢力を失っていきました。


台風~号はテレビ紀伊半島で熱帯低気圧に変わりました→海からの「海洋民族」、大陸からの「騎馬民族」、ぶつかる所には、徐福伝説、鬼にされた「ステルス国家」?たくさんあります。秦氏=徐福(ジョセフ)は、中国人化したユダヤ人で、ユダヤ→ヤハダ神→八幡信仰→熊野権現→修験道の山岳信仰が残っています。山には、女神が住んでいるので⇔女性が土俵に上がれない事は、

スポーツでは差別⇔神事では差別ではない?

雷神様は「災害と恵み」を与える稲妻である雷雷雷山の女神と女性では、「二面性」が成り立たないので・・・という事だそうです。


お試しブログ
黒潮は、南西諸島から北へ向かい、鹿児島の種子島近くで、東と北へ分かれ⇔東の黒潮は、熊野灘、静岡、千葉、宮城の金華山へと⇔北の黒潮は、熊本沿岸、壱岐・対馬、朝鮮海峡を抜けて、北海道までのぼっていくようです。飛行機で東京から沖縄へ飛行機向かうよりも⇔沖縄から東京へ向かう方が、早く到着します。それは、地球の自転による「偏西風」という・・・動力のない時代の航海では船潮や風を利用していました。


紀伊半島には、
熊野本宮を中心に「参詣道」で結ばれた。山岳信仰、神仏習合=修験道の地であった(現在やや神道化)吉野、熊野、真言密教の高野山。異なる3つの宗教の霊場が紀伊山地にある。
 神と仏、融合し共存。異なる宗教が敵対せずに共生している。


お試しブログ

あの時の、日本海の「新羅ルート」⇔瀬戸内海の「百済ルート」が合流する→ヤマトに繋がる→
「おに」桃太郎伝説の岡山県は「熊野」と縁が深い。あの時の「宇佐八幡宮託宣事件」→ 後ろには、「吉備まきび」という人=お腰につけた「吉備団子」→古い「カミ=モノ=オニの物語」‥離れて⇔結んで⇔「二面性」を繰り返している?
吉野修験(真言密教)=空海⇔熊野修験(天台密教)=最澄ある。修験道始祖「役小角」が伊豆大島に流された時、子弟たちが熊野本宮のご神体を船に移し、瀬戸内海、児島の地に「新熊野」が伝わる。そのため一部、瀬戸内海水軍には熊野信仰が根強いともいう。

水軍は、海賊、倭寇となっていく・・


徐々に琉球王の出自が倭寇ではなかったか?という本が増えてきました

http://ameblo.jp/yuukata/entry-10884761103.html


(+_+)倭寇は明国を荒らしていたので、それがばれると?はてなマーク



お試しブログ


琉球の進貢船は船後半、一度も倭寇に襲われた事がない。


お試しブログ

倭寇の大切にする宇佐八幡宮のシンボルマークが三つ巴で三つ巴倭寇の船の旗印も、琉球の進貢船も三つ巴である。
琉球八社という古神道のうち、安里八幡宮も第一尚氏の時代にたてられています鳥居安里八幡宮は、徳川家康よりもずっと「年上」である室町時代から存在しているようです。


琉球の王様が倭寇出身であったという説 は、賛否両論ありますてんびん座TVに出る歴史学者ほど、それを否定する⇔忍者は、自分の事を「スパイです」とは、言わず。諜報活動を行っている。


琉球王国は、14世紀後半の中山国王「察度(さっと)」の時代から、倭寇のさらってきた朝鮮国の捕虜を買い取り、那覇に難民用家屋に収容し、捕虜の数が一定に達すると、お土産の品々を持たせ、朝鮮国へ送り返し感謝されています⇔李氏朝鮮実録によると、琉球からの進貢船は毎度と言ってよいほど「倭寇」から買い取った朝鮮人捕虜を送り返している事を思うと?倭寇と気脈を通じていたのではないか?勘ぐりたいくらいである・・・と書かれていたようです。


倭寇が琉球の進貢船を襲わないのは、三つ巴紋に見られる旗印三つ巴「倭寇」との安全保障条約を結んでいたのではないか?宇佐八幡宮のシンボルマークである三つ巴紋は、鎮西八郎為朝の一族、源氏の氏神で、第一尚氏王朝、最後の王となった尚徳は、那覇・安里八幡宮を創建し、八幡按司の神号を名乗っている。


源為朝(ためとも)本人ではなくともbook☆源氏関係者の誰かが「可能性」との事でした・・



お試しブログ
久米村の隣、泊村には、


お試しブログ
ペリー提督も1852~やってきました


それは、鎌倉?浦賀を訪れる前に・・下田?伊豆?為朝?伝説?


檀の浦から、「源平の戦い」は終わったのではなく、兄弟、夫婦、宗教、公家と武家の「内紛」も重なり、現在まで続いているようです。


源平戦のもと辿ると→あの時の、藤原氏→その後ろには、藤原氏に鬼にされた蘇我氏(仏教)、物部氏(神道→両者の祖→秦氏(景教→空海は再び→真言密教=秘密仏教=景教?秦氏は長音記号2藤原氏とも血縁関係を結んだ。


見える『源平戦』と「藤原氏」ロボット⇔見えない『南北朝』と「秦氏」ゲーム鬼は外=「おもて」てんびん座内=「うら」→福(なか)は、「裏社会」になっている?さらに、何かの「うら支配」が・・・



東国は濃口で西国は薄口→なぜか南西諸島は濃口です。

東は「マック」西は「マクド」→南西諸島では「イルミネイト」といいます⇔本当ではないが「うそ」でもない‥やはり、「源為朝」は、やってきたのかもしれない・・


━─━─━─━─━─

その後、源為朝(ためとも)の子孫→源頼朝(よりとも)は「恋愛結婚」のつもりで部屋の外から北条政子の「妹」に告白しました⇔部屋の中から出てかたのは、北条政子でしたあせる「お見合い結婚」のような「恋愛結婚」・・曽我物語より・・


本当は子分が「恋文」を間違えて渡したとも・・

「源氏」の源頼朝は「平氏」の北条政子と結婚しました。

鎌倉幕府は「源氏」のような「平家」?平氏→かかあ天下‥


八幡神と熊野は縁が深い。

山岳信仰=山の女神=熊野権現もかかあ天下?はてなマーク


「土俵」は山の女神が住んでいる。雷神様は、「災害と恵みの雨」→

「二面性」を持った雷雷雷冬の稲妻・・


琉球王国も12歳で王になった尚真の頃から、祝女(ノロ)が「うら支配」→かかあ天下でした‥


お試しブログ

http://ameblo.jp/yuukata/entry-10955800887.html


後ろには、八幡宮という秦氏→客家の存在

鎌倉幕府にも「鶴岡八幡宮」

「源為朝」を救出した?伊予の河野水軍=源氏のような平家→北条市の近くには、八幡浜市があるという。秦氏→そして、空海、真言宗の「密教」=秘密仏教=景教?→古神道→琉球八社に繋がる?河野水軍の八幡紀伊の熊野水軍?


↓↓転載する↓↓

━─━─「武家のような公家」伝説━─━─━─


源頼朝の政所側近。
毛利季光は、大江広元の四男で、相模国毛利庄(神奈川県厚木市)を領有していたことより、「毛利」姓を名乗ったという。
「毛利元就」は、季光の子孫、長州藩主・毛利家へと繋がっていく。

宝治合戦では、薩摩藩の祖「島津忠久」も法華堂で自害した、島津家に伝わる史料によれば、忠久が源頼朝のご落胤(隠し子)と言っている。そのため厚遇されたとされる。鎌倉市西御門の源頼朝の墓近くに、大江広元の墓を中央に、毛利家と島津家の墓が並んで建っている。
武家政治の始まりと終わりで、薩長同盟…北条義時の法華堂跡ではないかと考えられている。

━─━─↑↑薩長同盟によって公家社会に?━─━─━─


このお話しも「伝説」であるようですが⇔お墓は、実在しており、臨済宗の影響→薩長同盟、吉田松陰、明智光秀、「お茶」まで?

↑↓何故か繋がる南北朝と源平戦の伝説?

13世紀、中山王・英祖の治世に僧・禅鑑(国籍不明)が那覇に漂着し、浦添城の西に極楽寺を建立する。極楽山=「浦添ようどれ」に眠る英祖王のDNAは「ポリネシア系」であり、「日琉同祖論」というか?一部?日中・日鮮・島津家(ポリネシア系)とは繋がっている事は、確かであるようです。


お試しブログ

その後、
察度の治世に日本の頼重法印が渡来して波上山護国寺を開き、真言宗を伝えた。三山統一後の琉球王・尚泰久の治世には京都から高僧・芥隠が渡来した。
芥隠は琉球における臨済宗の祖とも言うべき人物で、尚真王が1492年に臨済宗・円覚寺を創建する。
宗教間では、「日琉同祖論」どころか、「日・中・朝」特定アジアに限らず、東南アジアまで、鎌倉時代以前から繋がっていた?


━─━─↓↓転載記事↓↓━─━─━─


舜天代の浦添城を居城とし、1261年に浦添ようどれ(陵墓)を築く。(その後1620年に尚寧王により改修される)英祖在位中の13世紀半ばには、南宋から臨済宗僧「禅鑑(ぜんかん)」が来琉し、仏教が伝来した。これが琉球国での仏教の始まりとされる。英祖は入信し、浦添市仲間(浦添城の側)に極楽寺を建立した。
禅鑑は日本人説や朝鮮人説があるが、どのような経緯で来琉したかは不明

当時、日本僧の中には補陀洛(ふだらく)を目指し紀州熊野から中国舟山諸島へ向かう者達がいた。その中には琉球国に漂着する者のいたであろう。
英祖が琉球に仏教の布教を試みたのは、慣習や価値観の統一をはかり、国体の形成を図ったのではないだろうか。
浦添ようどれの英祖の墓から遺骨が発見され、従来伝説上の王とされてきたが実在の人物であることが証明された。



━─━─↑↑転載記事↑↑━─━─━─




日本人は単一民族という人は?もしかすると「イルミネイト」かもしれない‥




また、「運天港」のある今帰仁村には、今帰仁城という「いつ」、「誰が」、「なんのために」、謎の多い城が存在している。少なくとも、



また、つづく?かもしれない・・



















倭寇―海の歴史 (講談社学術文庫)/田中 健夫
¥924
Amazon.co.jp


琉球王国と倭寇―おもろの語る歴史 (叢書・文化学の越境)/吉成 直樹
¥3,465
Amazon.co.jp