父が8月6日に広島で被爆、大怪我を負いながらも帰還しその後は誰にも被爆の事実を明かさず、【ピカである事】を隠して生きてきた事を先日のブログで綴りました。

そんな父は平成6年に69歳で逝きました。

 

 

父:

「ホンマはな、俺みたいな古参が往く事は無いんやけどな、若いもんもおらんようになってたし、特攻用の粗末な飛行機※ももう無かったんや。」

 

「ええ飛行機は最後までとっとかなアカン。」「そんな具合やった・・・」

 

「飛ぶ事(特攻)が決まった時はな、【軍神】【神様】【神さん】言うて拝まれたもんや。」

 

 

 

大正14年に三男一女の次男として、大阪の枚方市 中宮※に生まれた父は貧乏ながらも尋常高等小学校を卒業していたので、戦闘機に搭乗する訓練課程を受けられたそうです。

 

 

父:

「【軍神、神さん】言われて出て行ったけどな、特攻も行かず、死なずに帰ってきたもんやから・・・大怪我して働く事もできへんかったから・・・そんな俺に対する扱いはそら酷かった・・・」

 

「【死にぞこない!】【なんでお前だけ生きて帰ってきた!】【ウチの子は死んで帰ってこんのやっ!】て言われて【貼り紙】貼られてなぁ・・・」

 

「兄貴も徴兵で取られて死んでしもたのに、生きてる俺が大怪我で家の事もできんから、オヤジからも厄介者扱いされてなぁ・・・」

 

「そんなんで【ピカ】言う事バレてみ?村八分にされてしまうどころか、家を追われてしまう。と思たんや。」

 

「だからずーっと、今までずーっと隠して来た。」

 

「仲間はみんな国の為に死んでしもたのに、何もせんと生き残った俺が国から【恩給】や【原爆手当】貰う訳にはいかんのやっ。」

 

 

 

 

当時中学生の私はただ黙って話を聞くだけでした・・・

 

そんな父が終戦後をどうやって生きたかは 8月15日に・・・

 

 

※古参:開戦までに職業軍人となっていた者

※粗末な飛行機:ベニヤ板などで修復した古い型遅れの機体や、複葉機や練習機。強度が足らず離陸時に破損し、搭載した爆弾の為爆発する事もあった。

※枚方市 中宮:陸軍造兵廠、近くには禁野火薬庫があり当時は軍都として称されていた。

※尋常高等小学校:小学校は義務教育10歳まで、高等小学校は非義務教育14歳まで

※最後まで:沖縄、九州がアメリカに占領された後の本土決戦を想定した総特攻作戦

※ピカ:本来、原爆の閃光を示すが、被爆者・原爆病を表わす。被爆者に差別の意を込められていた。

・【ピカ】はいつ死ぬかも知れんから雇うな。

・【ピカ】はうつるから雇うな。近寄るな。

※恩給:官吏であったものが退職、死亡した後本人またはその遺族に支給される金銭

※原爆手当:被爆者援護法によって支給される手当