医師:

「血液のですね、数値が異常なんですよ。昔なにか放射線とかに強く当たるお仕事とかされていましたか?普通では有りえない数値と肺の状態も非常に悪いですね。」

「歯を抜いたりして出血が止まらないってのも異常なんですよ。

父:

「・・・・・・・・・・」

しばらく黙っていた父が重い口調で語った。

 

父:

「そうですねぇ・・・僕はあの日、広島に居たんです。」

 

確か医者と父親の会話はそのような内容でした。

 

診察が終わり家に帰りついた私は父に

中学生の私:

「はぁっ?そんなこと初耳なんやけど・・・」

父:

「そやなぁ・・・言うて無かったなぁ・・・」

「俺はな、広島で被爆したんや・・・」

「今日まで誰にも言わんかったんはな、昔から【ピカはうつる。】って言われてな、被爆した事が人に知れると、仕事も続けられんかったんや。だから誰にも言わんかったんや。」

※【ピカ】=被爆者を差別の意を込めてそう呼んだそうです。

     ・【ピカ】はいつ死ぬかも知れんから雇うな。

     ・【ピカ】はうつるから雇うな。

「やけどもうこんな身体になってしもうたからには正直に言うて、【被爆者手当】を貰わんといかん様になってしもたんや。」

「俺はな【死にぞこない。】やから、【国の為に死ねんかった。】から、国から手当とか貰いたくなかったんやけどな・・・」

「お前も高校考えんとアカンし、おかんも昔大病患ってるから無理出来へんしな・・・」

※今日の診察は【被爆者手当申請の為の診察】だったようです。

 

私:

「広島って広島の何処で被爆したんやっ?」

父:

「広島の赤十字病院言うてな、原爆が落ちた所から1.5㎞のとこや。」

 

私:

「嘘やんっ!俺、修学旅行で広島の原爆ドームも資料館も行ったでっ!原爆の光と熱受けた人間は地面に一瞬で焼けついたり、体の皮膚蕩けて半日もせん内に死んでんでっ?」

 

「生き残ってる人って、だいぶ離れたとこで【黒い雨】おうた人やろ、直接原爆に当たって無い人やろ、それでも数日、数ヶ月、数年で死んでるって言うやんか?」

 

父:

「赤十字病院ってな、そん時には珍しい【鉄筋コンクリートの建物】や、それに俺、原爆が光った瞬間はな、一階から二階に上がる階段の【踊り場】におったんや。」

 

「【階段の踊り場】はな、丁度建物の角がな、原爆の光と爆風の方向に向いてたんや。」

 

「【コンクリートの一番強い角】に丁度【光と爆風】が当たった訳や。」

 

「だから、死なんかったんや・・・」

 

私:

「いやいやいやっ嘘やろっ!」「爆心地から1.5㎞やでっ?生きてる訳ないやんっ?」

 

父:

「階段の踊り場に【鉄格子の窓ガラス】があったんや、その【窓ガラス】がな、爆風で俺の背中全部、頭から尻まで全部ガラスが刺さったし、吹き飛ばされた時【格子】でアバラを2本えぐられたんやっ。」

 

「目が覚めた時、俺は真っ赤な包帯でグルグル巻やった。・・・」

 

「周りは誰も生きてへんかった。・・・」

 

確かに父親の頭から尻にかけて、3~5㎜程度の切り傷がケロイド状になって、数えきれない程ありました。

肋骨も左の3番と4番が陥没骨折し、放置したまま治った【いびつな形】です。

 

 

私が小さな頃、5才頃でしたか・・・

 

母親より告げられた事実がありました。

 

「あんたはな、おとんとおかんに子供が居らんかったからな、人から貰ってきた子やねん。」

 

「おかんが黙ってても【どうせ誰かの口から耳に入る。】やろから、言うとくな。」

 

「貰ってきたけど、産まれてから2ヵ月やったから、あんたは知らんはずや。」

 

私は養子です。

 

私が産まれる前に両親は既に離婚しており、実母は私が産まれると直ぐに実父へ私と6つ違いの姉の二人を委ねたそうです。

 

乳飲み子を抱えた実父は仕事に出る際は、私と姉を近所の老夫婦に無理やり預けていたそうですが、2ヵ月も過ぎた頃、実父は私を一度捨てています。

 

私を預ける度に嫌味を言われてた様です。

 

そんなある日、

私を預けに来ない実父を、不思議に思った老夫婦が問い詰めた結果、実父は私を捨てた事を白状したそうです。

 

中略

 

そんな私を子が居なかった養父母が引き取り、養子に迎えてくれたのです。

養父母に子供が出来なかったのは父の【被爆】が原因の一つだったのかもしれません。

 

 

父の話に戻ります。

父は大正14年生まれ、三男一女の二男として生まれ大阪の軍都【枚方市】で育ったそうです。

父は戦争(大東亜戦争:太平洋戦争=第二次世界大戦)について全く何も語らない人でした。

自身の戦争経験、まして【被爆の事実】など、この日まで一切話してくれていませんでした。

 

昭和20年8月6日

特攻前に休みを貰った父は、戦友を見舞う為に【広島 赤十字病院】を訪れたそうです。

見舞いを澄ませば、四国徳島に渡り、飛行機を受取ってから基地(鹿屋なのか知覧なのか不明)に向かう予定だった様です。

 

戦友の病室へ向かう病院の階段踊り場で被爆したそうです。

 

私は父の話をほとんど信用していませんでした。

爆心地から1.5㎞での直接被爆で生きている人間なんているはずがありませんから・・・

 

そんな父も亡き後は【被爆被害者】として広島の平和公園で眠っています。

 

 

数年後

妻との旅行の時です。四国徳島から広島周りで鹿児島に帰る事になった時、

 

私:

「あーっオヤジは原爆ドームから1.5㎞の【赤十字病院】で被爆した。言うてたわ。」

妻:

「そんなん、せっかくやから行かなあかんやん。いこいこ。」

私:

「絶対嘘やてっ!爆心地から1.5㎞で生きてる人間おったらターミネーターより凄いでっ!」

 

 

 

妻にせがまれ【旧広島 日赤病院跡地】を訪ねました。

 

 

      

オヤジ・・・

 

ごめんな