マル共連傑作選-3『告白者Aの党派間ゲバルト風景録』 | 北のりゆき☭遊撃インターネットのブログと小説

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 下の文は、今は無き共産趣味者の拠点『マル共連』の掲示板に投稿されたものです。内容が良いと思われたものを別に保存していたため『マル共連』消滅後も 生き残りました。その内いくつかを『マル共連傑作選』として公開することにしました。誤字・脱字は、読むことが困難にならない限りあえてそのままにしています。
 元中核派の活動家による主に内ゲバに関する追想記です。非常に読みにくい文章ですが、伏せ字やイニシャルなどはあえてそのままにしました。
 今となっては書きこみをされた方と連絡をとることは不可能なため、無許可転載です。不都合がありましたらご連絡下さい。適切な処置をとらせていただきます。

                                              北のりゆき・鉄砲先輩
----------------------------------以下転載

告白者不明であるが、「党派間ゲバルトの感性」がネット空間に次のような内容のものがサイトアップされている。これを転載しておく。仮に「告白者A」とする。仮題「告白者Aの党派間ゲバルト風景録」によれば、「告白者A」は、中学・高校と陸上部に属し、秋の県大会100mで優勝の実績を持っている。中学あたりから社会意識に目覚め、高3の時はじめて10.21国際反戦デーデモに参加している。某大学社会学部社会学科入学。陸上部に入ったが、2週間で退部した。大学は6年通って、(表向き)授業料未納で除籍。ノンセクト活動家を1年ほどやった。その後、**派に入った。
 でもって、成田開港の後、どうしようもない挫折感におそわれ、無気力状態に陥ってしまう。党の大きな方針転換にも疑問があった。この方針転換とは「組織防衛」を第一義とし、これから来るであろう後退局面を退却戦として戦おう、というものであった。もちろん対外的にはそういうことは言わなかったけれど、その後の20年をみればそういうことであったと思う。おれとしても「そういうことか」、と感じていた。”おれの出番はなくなったな”というか、”もうついていけないな”という漠然とした気持ちを抱きはじめていた。きっぱりとやめようと決断したわけではない。ずるずるとやる気をなくしたのである。

 (***しかし、やはり党の指導者であったH書記長の死は大きかったと思う。□◯派のテロで暗殺されたのであるが、そのニュースを聞いたのは党本部の書記局の部屋であった。それはもうかつて味わったことのないようなショックを受けた。党本部は3階建てのビルであったけれど、建物全体が静まり返って重苦しい雰囲気に包まれたようだった。歯をくいしばって眼に涙をうかべる者もいた。

 H氏はみんなから親しまれ尊敬されていたのだ。H氏はその当時の他派やガクセイ運動の指導者と比べてもけたちがいの人物であったと思う。彼の人物感を表する多くのエピソードがある。例えば、サイリズカ闘争の初期の頃、彼は農民の指導者の家を訪ねた時、神棚に手を合わせたという。彼にとっては唯物論者としての立場などよりも、農村の慣習をふまえ人間と人間の信頼関係を得ることこそが大事であったのであろうか。こんなことをさらっとできる人はその当時ほとんどいなかったと思う。

 また、彼は、機関紙やビラなどでは難解な言葉使いをことさら批判し平易な文章を心掛けろと口をすっぱくして言っていた。ほかのサヨクと言えば難解な言葉を書き連ねてそれが知的であるかのような時代にである。70年闘争で組織破防法が発動されいよいよ危ないかという時でも党の主要な政治局メンバーがさっさと地下に移動したのにほんとは一番危ない彼が最後まで残った。また党が彼に最強の防衛隊をつけようとした時拒否されたとも聞いた。遠く離れて防衛上も安全なところから指導すべきだという意見にもがんとして拒否されたとも聞いた。そのあたりも敵の情報網にひっかかる原因があったのかもしれない。なにか当時” 義理と人情の**派”と一部で言われていたけれど、これはH氏の人柄に大いに関係していたにちがいない。つくづく惜しい人をなくしたと思った。もちろん残ったS氏などもりっぱな指導者ではあるけれど、やはりH氏あってのことではないだろうか。やはりH氏ならばついていこうという面はあったと思う。いわば例えは悪いがH氏は「仁侠」にも通ずるものがあった。

 **派は当時「決戦主義」などと揶揄されたものだが、しかしそんな他派の低レベルの批判などおかど違いであり、それこそはH氏の思想そのものであった。「革命党は負けがわかっていても(たとえ局面における戦術的勝利がほど遠い場合であっても)戦わなければならない時がある」というのがH氏の持論である。奴隷根性に堕ち、敗北主義にそまるよりも階級と人民に希望を与えるために党と活動家は犠牲になって戦え、ということであった。だからこそすべての党員がどんな時であろうと「H氏なら必ずやる」という確信をもっていた。敗北主義におちいることなど一度もなかった。どんな苦しい時でも楽観主義であった。「やる時はやるんだ」という気概をすべての党員が持っていたのだ。彼についていけばまちがいないという心情すらおれにもあった。

 だからこそ彼が亡くなった時の悲しみは例えようもなかった。党内も激高していた。党内でも最左派でならしていたB戦闘同志会などは「□◯派本部とD労会館に突入しよう!」とか叫んでいた。H氏がテロに遇ってから1週間後6人の□◯派戦闘員がアジトで完全××されている。党のすべての人間がそれを長いこと(たった1週間であったのに)待ち望んでいた。みんながようやく半分くらい溜飲をさげたような気がしたと思う。それは史上に残るもっとも激烈な戦闘であったようだ。新聞各紙のトップをかざり、社会面は半分以上をさいて報道していたと思う。その後の「自民党本部火炎放射焼き討ち事件」に匹敵する扱いであった。周囲の電話何万回線も切断し、敵のアジトの鉄のドアをガソリンカッターで切断し、中のバリケードを打ち壊して突入し、一方の隊は隣の部屋からスレートを巨大なハンマーでたたき壊して突入したらしい。××された6人はH氏が受けたのと同じ打撃を全員が強制されたという。部隊は全員真っ赤な返り血をあびたらしい。
 この当時から「等価報復」という言葉が使用されている。(H氏の暗殺者の凶器はまさかりであったらしい。それに対して1mもあるバールで報復したらしい。その後の政治集会で60年アンポゼンガクレンイインチョウで有名なK氏は「ファシストの脳天にバールを!」とアジっていた。)その事件の報道を聞いてすべての党員が手に手をとりあって「やった、ついにやった!」と叫んでいた。それからその後の1年近くはまさしく嵐のようなテロ合戦であった。銃火器だけは使わなかったけれど、何百人もの死傷者を出した戦争以外のなにものでもなかった。

 戦争以外のなにものでもない多くの戦闘行動に俺も数多く臨戦している。歴史的事実を風化させないために俺はあえていまだ生々しい記憶を掘り起こしている。ひとつことわっておくが□◯派はもはや決してサ翼ではない。敵対党派や文化人らににわとりの生首や猫の死体を宅急便で送ったりするのはサ翼ではない。敵対的な労組の幹部らを尾行し電話を盗聴しプライベートな醜聞をさがしまくりそれをネタに恫喝するのはサ翼ではない。他派をつぶすためにのみ軍事組織をつくり、他派の戦闘はすべて「権力の謀略」であるなどとうそでぬりかためるのもまたけっしてサ翼のやることではない。他派をウジ虫とか青虫とか公然と機関紙で言ってるのもまた□◯派の本質を表している。したがってこの戦争をひとくるめに「内ゲバ」と称するのは決して正しくない。サ翼の仮面を被った、史上もっとも暴力的な新興宗教団体と言った方がいいかもしれない。事実、党首の「くろカン」としょうする人物は彼等の集会では録音テープで登場する!彼等は総立ちになって拍手するらしい。
 風化させないために、事実を知ってもらうために、一つの会戦(!)を掘り起こそう。個人テロ戦に対して集団戦を会戦と称していた。有名な会戦に俺も参戦していたH大6.26会戦というのがあった。H大構内で起こった200人規模の大集団戦である。その当時すでに□◯派の脅威は猛威をふるっていて、ただの学内集会すらまともに開くことすら命がけであった。全国のほとんどの大学は□◯×派に制圧され、数少ない当方の拠点大学は幾度となく襲撃されていた。多くの死傷者も出している。早稲田、東大、東工大、専大、国学院、横国大、北は北大から南は沖大までほとんどの大学を制圧されていたといっていい。大学だけではない。国鉄、全逓、教労、自治労、..労働戦線ですら□◯派の支配は猛威をふるっていたといってもいい。信じられないだろうけれど、本当の話である。例の国鉄分割の時も当時の中曽根が切り札にしボス交でとりまとめた相手こそ日共ではなくD労のマツザキであった。この人物こそ□◯派の副議長である。当時の影響力を物語っている。

 **派の学生カツドーカは大学に登録してある下宿やアパートをすべて引き払っていて友人のところを泊まりあるいたり、2.3ヶ月ごとにアパートを代えたりしながら□◯派の牽敵活動をかいくぐっていた。□◯派はインフと称して数百人規模でスパイ活動もどきをしていたし、先日権力にアジトが摘発されてあきらかになったけれど、盗聴活動などはけたはずれの規模で行っていた。警察無線のデジタル暗号を解読していたというので権力がやっきになってようやく検挙したらしいけれど、これも聞いた話によると警察内部にかなりのそれもかなり幹部クラスに□◯派のスパイが入っていたようだ。東大は□◯派の拠点校の一つであった。警察に組織的にもぐりこませていたとするならば十分ありえることだ。「加入戦術」というのは□◯派の公然たる戦術でもある。この辺もどっかオームに似ている?!オーバーに恐れていたのではなくて事実、何百件とアパートで寝込みを襲撃されている。俺などもアパートのドアは冷蔵庫などでバリケードをつくり、ふとんに鉄パイプを抱いて寝た記憶がある。両手両足には竹とガムテープで作ったプロテクターをつけていた。

 で、学内集会であるけれど、のこのこと大学に歩いていってたらその途中で襲撃されてしまう。帰りもまたしかり。したがってそのころはもう、60年代にみられたような(「いちご白書」にみられたような)ある種、牧歌的な風景などみじんもない。大学に入るのすら命がけである。例えばこうだ。前の晩、3人ずつぐらいで各所に分宿する。朝4じに起床し、決められた結集点に集合する。結集点はいくつかある。そこで幌付きトラックにのりこむ。そのなかでヘルメットと竹ざおで「武装」する。鉄パイプでないのはその時点で権力に遭遇した時「凶器準備集合罪」に問われないようにするためだ。そして大学近くの公園で各所からきたトラックが集合し、そこから全員が隊列を組んで大学に向うのだ。大きい集会であれば、50人から80人くらいであろうか。この部隊は先発隊であって、いわば集会防衛隊である。そうやって防衛隊が学内に陣取った後でもう少し大衆的なレベルの参加者らが合流するのである。

 *** 一部で有名になった”糾察隊”というのはこの集会防衛隊から派生した部隊のことであって、この言葉にはいろんな誤解がある。「公安調書」などは、「糾察隊」が「軍」そのものであるかの記述があるが水準が低いのかアホなのか笑ってしまう。ノンセクトのなかにもそう理解している人もいてこれもこれも低水準。この頃、集会がしょっちゅう襲撃されるのでα(アルファ)という集会防衛隊を作った。これは軍組織でもなんでもない。集会参加者はβ(ベータ)、防衛隊は α、それだけのこと。だから「○×大は、αを○人出せ」とか指示を出してその集会の都度、急造した隊編成なのだ。「求殺隊」なんて笑かすなよ。集会場の周辺を見回りしてスパイとか襲撃部隊とかを摘発しようとして動いていただけのこと。α(防衛隊)とは別に攻撃隊を配置したこともあったけどね。こっちの方が本来の誤解された意味の方だね。まあ、ただαは軍隊的行動を要求されたので本来の軍から指導を仰いでいたのはたしかだけれどもね。このα隊が、他派や一般学生らから反発を買ったのも事実。だって実際、一般人の荷物検査をしたり、(武器=Pを持ってないか)服装チェックをしたりしたわけだから。警察なみだよね(だから-警察と区別して-人民糾察隊と言った-正式名称ではないと思う-αの組織化をまかされたキャップクラスが勝手に命名したようだ)。αは、ただの活動家クラスの若い学生や労働者が多かった。だから実直だし使命感に燃えていたし硬直でもあったわけで、一般民衆にはまずい対応もいっぱいあったと思う。それは指揮官クラスの指導のつたなさの問題でもあるんだよね。

 6.26 当日もそのようにしてH大構内に60人ぐらいで登場したのだ。実はこの日は背水の陣でゴリゴリのメンバーを総動員していた。ガクレンのイインチョウHもいたし、マルガクドーのイインチョウのFもいた。SOB議長O氏すらいたのだ。なぜかと言うと、その1週間前のサンリズカ支援集会を襲撃されて大敗北を喫していたのだ。こっちが100人に対し、それ以上の数ではさみ打にされこてんぱんにやられている。1人の死者も出した。重傷は数しれない。その当日、俺は党本部にいたけれど、夕方になって血だらけになってみんなもどってきていた。H大といえば**派の最大拠点である。そこを襲撃され惨敗したとあっては立つ瀬もない。たいしてダメージを受けていないぞ、という姿勢を内外になんとしてもアピールし党内外の動揺を払拭しなければならない。そうした政治判断における 1週間も経たないうちの大動員であった。なりふりかまわぬ召集だったわけだ。逆に敵もそんな早い再襲撃もきついだろう、という読みもあったのではないか。召集したメンツにそれがあらわれているように思う。

 しかし、それは甘い読みであった。敵はより以上の強力な布陣を敷いていたのだ。我々は部隊を校庭に布陣し、学内の検索隊を何隊か出した。数分して検索隊が戻ってきて「異常なし!」という報告があった。だが、その時である。正面の69年館の中でなにか白いものがうごめいていた。すぐにそれはヘルメットがゆれたものとわかった。誰かが「Yだ!」と叫んだ。一斉にこっちの部隊が建物に殺到し衝突が始まった。それがそれから1時間以上におよぶ壮絶な死闘のはじまりであった。発見が一瞬こちら側が早かった分さいわいしたのだろう。敵が建物からでてこないうちに殺到したおかげで緒戦の激突はこちらが押していた。(もしもであるけれど、発見が遅れて敵に奇襲をかけられていたならば、もっと悲惨な結果になっていたであろう。)喊声をあげて突っ込んだ部隊は竹ざおで69年館のドアとガラスをぶちやぶり敵に猛然と襲い掛かった。だが敵の数は半端ではなかった。倍(百以上)はいたであろう。「斥候は何を見てきたんだ!」とおれは思った。しかも竹ざおと鉄パイプではやはり勝負にならない。ばしっ、ばしっ、と竹がたたきおられてしまう。がつん、がつん、とヘルヘットが陥没してしまう。10数分でずるずると押し出されて校庭が主戦場になってしまった。総勢2百人規模で校庭いっぱいにひろがって白兵戦が展開されている。まさしく斬り合いであった。何人かが血まめれになって地べたに倒れている。敵は長めのパイプと短かめのパイプの2種類の役目の人間がいて訓練された部隊であろうことはすぐわかった。(当時□◯派にはJACという襲撃の特殊部隊がいてテロのプロといってもいい組織があった。)「こいつらがJACか」と思った。おれはJAC に遭遇したのはこの時がはじめてであった。頭上からヘル越しに1発くらってクラッとなった。グシャとヘルが割れた。さらに左手に一発くらった。幸運にも時計にあたって壊れてそれが幸いした。それでも左手のダメージは大きくてその後ずっとしびれて握力がほとんどなくなった。こんな白兵戦になると竹ざおなど何の役にもたたない。突いたって当たりはしない。さおのまん中を両手にもって右、左と鉄パイプの嵐を振払うのがせいいっぱいであった。そのうちこっちの部隊のうち20人くらいが押されて正門の外にだされてしまった。いよいよやばいかなと思った時、助っ人が出てきた。学生会館に泊まり込んでいたこっちの部隊 5.6人が鉄パイプをもってでてきたのだ。それでまた押したり押されたりの均衡状態になった。というより双方疲れてきたのであろう。みんな竹ざおをふりおろせない程、疲弊していた。一瞬不思議なにらみあい状態が続いていた。後ろの方でSOB(カクキョウドーガクセイソシキイインカイ)議長の「隊列つくれ!かたまれ!」という声が聞こえていた。(かたまってどうするんだ、とおれは思ったけれど、彼はJACの怖さを生身で知っている人間である。勝てる相手ではないと思っていたのであろう。)その間をぬっておれは使い物にならなくなった竹ざおの替わりをさがしに後ろへさがった。本館の柱の影で鉄パイプをもってふるえているW大の仲間をみつけた。「何やってんだ、こんなとこで!」そいつは先輩であったけれど、おれはついどなってしまいその鉄パイプをよこどった。これでおれはようやくまともに戦えると思った。そこからおれは鉄パイプを手にして意気あがりなんとも無謀なことをしたのだ。にらみあって横を向いている□◯ 派の部隊に真横からたったひとりで突っ込んだのだ。Pをふりかざす瞬間大声を上げた。「ナロ~!」ひとりの右肩にぐさっと一撃。とってかえして顔面に二撃。だがそのとたんに3人ほどにかこまれて猛然と反撃された。だがそれが合図になってにらみ合いから一転、戦闘がはじまった。おれは敵の陣地からなんとかのがれて部隊に復帰した。それから俺は二人ほどやりあい鉄ついをくらわせただろうか。こっちの人間も何人か地べたに倒されている。倒されているのに助けるひまなどないのだ。足元にも敵がすごい量の血をふいてねころがっている。「こいつ死んだのか。」と一瞬考えたりしている自分の妙な冷静さが不思議であった。

 10数分続いた後だろうか。むこうは徐々に隊列を整えて上回る数で扇型にじりじりと追い詰めてきた。「あいつだ、あいつをやれ!」という声が敵の隊列から聞こえてきた。なんだ、おれを差しているではないか。その一瞬、4.5人がこっちに殺到してきた。ワーッ、とボコボコにされてたえられなくなって学館の方へ逃げた。ところがそれがまた合図になってわが方の部隊が一斉に学館にむかって逃走したのである。全員が学館に逃げ込んだ。敵はそれ以上追ってこなかった。中ではマルガクドーイインチョウのF氏が、入り口にバリケード築け、と指示を出していた。たたかいは終わったのだ。全員疲れきり、血まみれの服をまとい、ある者は折られた手足をだらりとさせてうずくまっていた。そしてその一時間後くらいに機動隊が入り当方は全員逮捕された。襲撃した□◯派は逃走している。幸いにも死者は出なかったが、双方あわせて数十人の重傷者を出した。

 勝てはしなかったけれど互角に戦った。それまで常勝のプロ軍団JACは初めて手痛い傷を負ったのである。JAC神話が崩壊した日であろうか。こんな会戦が何十回となく全国であったのだ。立教で横国大で慶応大で、あるいは相模原とか新橋駅構内とかで、...。

* (なぜこんな戦争が起こったのか、なぜ□◯派のような集団を生み出したのか、もっとはっきりと明らかにすべきである。もっと言えば、連赤、クメールルージュ、そもそものスターリン。キヨーサンシュギ運動のなかからなぜこのような部分を輩出してしまったのか、をはっきりさせないかぎり未来の青年を決してマルクス主義で引っ張っていくことはできない。おれはこの戦争の正当性を主張できる。当事者としてその事情を知っているかぎりにおいて、戦うしかなかったし、戦わなければやられていたし、もし我々が戦わずに□◯派の天下になっていたとしたらそれこそおぞましい。しかし何も知らない若者に対してマルクス主義運動がなぜそうような部分を生み出すのか、と説得するはっきりとした論拠を俺は持ちえていない。みななぜ口をつぐんでしまっているのか。もちろんそれはいまだに □○派のテロがこわいという面は十分にあるが。)
*
* そして、何年か経って戦争も闘争も一つの峠を超えたかにみえたある日、おれはふと党本部に帰るのをやめたのである(当時俺は党本部に寝泊まりし、飯を食い、 24時間それだけに没頭していた「職革」であった)。はっきりと説明できる理由があったわけではない。エネルギーがなくなったロボットのように動くのをやめたとしか言いようがない。その後、10何年かは、まるでせみのぬけがらのようでもあった......、この混乱は何なのか、思想的拠り所を見つけない限り、帰れないと思った。確信も持たずに戦争はできない...
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* ずいぶん、つらいことやきびしいことを書いてきたようだけど(?)、(おれも含めて)当事者たちは、決してつらいことばかりだったわけではない。むしろ、楽しかった。みんな生き生きしてた。毎日わくわくしていた。”血わき肉踊る日々”であったと思う。その間かれこれ5年以上にわたる間、ほぼ毎日3時間ぐらいしか眠っていなかったと思うが、そんなに苦ではなかった(もちろん、無茶苦茶眠くて、食事中に寝てしまったり、歩きながら寝てしまったり、なんてこともあったけど)。ハイテンションがずーっと続いていたから、むしろあんまり眠れないんだよねえ。つらい時代であった、などと言うつもりはひとつもない。何年か経ってから同時代を同じように生きたかつての仲間やノンセクトの友人らと何人かと酒席についたことがあるが、最初はみな疑心暗鬼である。こわいものを見るような眼で見ている。言葉も選びながら、静かに話をしている。はじめはなにやら総括やらなにやら言ってるけれど、でもたったひとこと「でも、おもしろかったなあ!」と言うとみんな一気に打ち解けてしまうのだ。「そう、そう!」と合鎚を打ち、「あの時は..、」という話で盛り上がってしまう。みんな体を張って生き抜いてきた戦友だし、インターやワルシャワロードーカは軍歌なのだ。かつてのエンゲルスの著作を思い出してしまう。「かつて敗れはしたが歴史的ホーキをやりとげたヨーロッパの片町の酒場は、その後何十年にもわたって労働者の誇り高き唄声がきこえる...」と。あれからもう25年以上も経つのにいまだに呪縛からのがれられずにいる人も多いにちがいない。数年前、大学の同期生に会った時、税理関係の仕事をしていた彼は、最初かたくなに何もしゃべろうとしなかった。過去のことは一切しゃべってくれるな、という態度であった。彼は20年以上にわたって女房・子どもにも、もちろん会社の同僚にも**派カツドーカであったことを隠し通してきたのだろう。しかし飲むにつれて、おれは何のこだわりも持っていないこと、やましいこと等なんにもないこと、それどころか我々がやらなければ今の世の中がどうなっていたのかということ、そんなことはおまえも知っているはずだということ、Yの暗黒を阻止したのはあの戦争なんだ、誰が何と言おうとわれわれがやってきたのはホーキなんだということ、おまえもおれも歴史的ニンムを果たしたんだということをおれは自分に言い聞かせるかのようにしゃべった。しばらく黙したあと彼は、「眼からウロコが落ちた」と言った。「肩の荷が全部おちたようだ」とも言った。おれのようなノーテンキとちがって彼のようなまじめで実直なタイプはカツドーカにはけっこう多かったし、そういう多くの元カツドーカが彼のようにじっと身を潜めるように生きているのかと思うと少しやりきれない。おれがこんなヤバソな話を書きはじめた理由のひとつもその辺にある。だけどもう25ねんも経ってんだぞ。おい、おい。我々がおやじ達の太平洋戦争の話を聞いていたのも「戦後20年」とかであった。う~ん!?...我々の戦争はまだ終わってないのか?
*
* カツドーカをやめた。それにしても党生活・活動を通して人間の深さみたいなものを垣間見た。世の中は広い。他では出会えないような怪物のような人がここには何人もいた。自分の小ささを何度も思い知ったものだ。ホンダさんは言うまでもない。頭の回転の速さ、判断の速さでいったら、マツオ氏はすごかった。普通うーんと悩むような問題をいつでも一瞬にして解決策を提示できた。ビラや新聞原稿を執筆する速さもべらぼうであった。全国紙の巻頭論文をあっと言うまに書き上げていた。ただ、それに比してその判断が性急過ぎるのではないかと感じることはいくつかあったけれど、やはり後になって、失脚することになったようだ。詳しいことは知らない。おれが戦線を離れた後のことだから。ただおれをR大の担当からはずすという不可解な人事をおこなったのも彼であったのはまちがいない。彼は今、公然と某大学の講師を勤めているけれどその変わり身の速さも理解しがたいが。
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*  キタコウジさんの演説のうまさは格別であった。いつ聞いても感動的に盛り上げていくのである。さすがに60年アンポゼンガクレンのイインチョウともなるとまるでものが違うといつもうなっていた。(この人は、60年安保トーソー時、6.15国会前のゼンガクレンのデモシキをして国会内突入を果たしたその人である。この時、かの樺美智子さんが死亡している。)キタさんの眼力というのもすごい。おれが書記局に入った頃、まだほとんど話もしていないのに(単ゲバと度胸だけで売っていた?おれを)「君はまるでスルメのような人だねえ」と褒めた?のだからすごい(笑^^;)。キタさんと同世代のオノさん(マオさん)は人間そのものの大きさに敬服するしかなかった。嘘偽りのまるでない人。人民とカイキュウトウソウに対するまるで微動だにしない深い愛情。オールドボルシェビキの典型のような人。他派からも愛された偉大な人だ。彼は最近戦時下のイラク・バグダットに入り、「人間の楯」として世界中から入国した人々を組織してバグダット市内デモを敢行したそうだ。うーん!なんともすごい。当年60歳を越えているはずだ。生還したのだろうか?
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*  政治的センス、バランス感覚でいったらM同盟イインチョウのフジタ氏。その才能もある意味で究極であった。オノさんとは逆に他派からはもっとも嫌われた人物でもある。それだけ政治的力量が際だっていたことの証左である。
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*  ガクレンショキチョーをしていたN大のイナベ氏も人間的魅力にあふれた人であった。マツオ氏ほど頭が切れるわけではない、フジタ氏ほど政治的力量があるわけではないが、人を見る眼と人を育てる力という才能があった。イナベ氏はおれの直接の指導部でもあった。彼はいっしょに活動を始めてからしばらくしておれのことを「おまえはほんとにどんぶり勘定だなあ」と言っていた。何と言う眼力!そう、おれは「どんぶり勘定」でそれでいて「スルメのような」人間なのである(笑い)。まったくそのとおりだ。まちがいない。おれ自身は言われてはじめて、しかも何年かして気が付いたのだが、彼等はわずか半年やそこらで言い当てたのだ。**派の70年代のR大学生運動は彼とおれとでたった二人ではじめ、育てたと言っても過言ではない。最初同盟員はおれだけ。それが数年して**派最大拠点H大をしのぐ首都圏最大の動員力を誇る拠点校へと育てたのである。今にして言うけれど、H大など新入学生もノンセクトもほとんど誰ひとり獲得できなかった。党の動員力をかけてでかい立て看を作り旗を振っていただけである。おれらのR大はちがう。クラスに入り、サークルに入り、ノンセクトと論争し説得した。74年以降、学生大会で2千人以上集め、何百人規模の純粋の学内集会を開くような盛り上がりをみせた大学運動が他にあっただろうか?たぶんない。この時期**派の学生運動を全国的に牽引していたのはまぎれもなくR大であった。
*
* ぼくとイナベ氏のたったふたりではじめたR大の組織化。何から手を付けるか?ノンセクト時代の人脈を生かして個人オルグをトコトンやろうということになった。ノンセクト運動の指導部と接触しコンタクトをとり話をする。集会に誘う。イナベ氏にも同席してもらう。なにせイナベ氏は日大全共闘の有名人である。効果はかなりあった。メシを食う。酒も飲んだ。親近感をもたせることがまず大事。当時、××派はノンセクト内部でもカリスマ的影響力をかなり持っていたけれど、その反面、近寄りがたい「怖さ」みたいなものもあった。いっしょにメシを食うというだけでもその垣根を取り払う効果はまちがいなくあった。表面には出ない地下工作を地道に1年近くも続けただろうか。そしてたまに(決してぎょうぎょうしくではなくさりげなく!)ビラ入れも行なった。ビラ入れ自体が衝撃的だ。なにせR大はノンセクトが最大党派でそのうち機関誌の学習会もできるようになった。自派集会・デモへの参加者も徐々にふえていった。地下組織化はちゃくちゃくと進んだのである。やがて大々的にいっきに登場する舞台裏は整いつつあった。...(この項、後述...の予定)
*
* 「H 大は何をやってるのか」というのが当時のおれの口癖で会議でもH大指導部を攻撃したものだ。ほかには、オルグの天才とかもいた。信じがたいスカウト術!新人をぞろぞろと連れてくる天才。大物や文化人らをじっくりと落としてしまう天才。おれはその点まるでだめであったなあ。突っ込ませる時の扇動だけはできたかな(笑)。ノギさんという人がいてこの人はマツオ氏、オオモリさんの前にSOBのトップだった人。非常におだやかで物腰が柔らかく頭のいい人であった。マツオ氏やフジタ氏のような独断専横のにおいはまるで感じられない。殺伐とした戦況が頻繁にとびこんでくる書記局のなかでもいつもひょうきんな笑顔を絶やさないような人。印象はマオさんに近いが、マオさんほど「実直なボルシェビキ」ではない。もっと醒めて冷静に戦局をみつめているようなスタンスの人だ。こういう人のほうが人物としては大物だと思うけれど、「戦争」という状況下ではどうしてもマツオ氏のような、決断の早さ、リーダーシップの強さという部分の資質が重用されるのだろうか。おれはM加盟論文を彼に「講評」を受けた。”自分が見た中では最高の論文です。ということはこの書記局内の誰よりも優秀だということですよ。M主義の理解、党の方針の理解という点でここまで理解して加入を決意した人はいません。”というような極上の評価を受けた。そのせいかなあ?おれはノギさんに悪い印象は一つもない(笑)。党本部というのは全国の傑物ばかり集まってきた怪物屋敷ようなところだったんだなあ。それでもみんな欠点がある。これだけの人物がそろっていたのに完璧な人間などいない。マツオ氏もいくつかまちがいを犯した。これこそ傑出した人間であっても権力を集中させてはいけないということの証なのだ。たしかに当時、マツオ氏には権力が集中しすぎていたようだ。キタさんやタカギさんですら彼の下のように見えた。ということは彼は地下のPBと同格であったのか?この体制を不可解と思っていたのはおれだけではあるまい。彼がその後、降格したことは**派の自浄作用が働いたと信じたい。(追記。最近、オノダとかアラとかその当時のことを振り返る本が続々出版されている。ヒドイ。読む価値もないが、逃敗走した兵隊が、悪態を着いて醜行を繰り返しているようなザマだ。アラとかオノダとかいったイイカゲンでデタラメな奴らが、歴史を偽造してまで自己弁護を繰り返し、自分の自慢話をべらべらとしゃべりまくる。一方で、真摯に取り組んできた優秀な部分は、真面目さゆえに、{主に}マルクス批判をできないまま思考停止におちいり沈黙を決め込んでしまったという80年以降の現実。今現在の思想状況のていたらくの原因はこの辺にもあるのではないかとおれには思えるのだが。)傑物ばかりをあげてみたけれど、もちろんしょうもない俗物もいっぱいいた。あまりけなしたくないので気が引けるけれど、例えばマツオ氏の後のイインチョーHなどは、声がデカイだけ、アジだけは(中身がないけど)まとも、下部にはどなりちらすだけという程度の人物。よく戦争映画にでてくるいばりくさった鬼参謀みたいなもの。その程度で起用しておけばいいのに、とおれはいつも思っていたし、ずっとそりが合わなかった。こういう輩はふだんいばりくさっているのにいざ戦さになるとほんと絵に描いたようにてんで役立たずなのだ。まあ、時効だからこのへんにしておくが、戦時下では(帝国軍であれ革命軍であれ)こういう輩が出てくることを記憶しておいても悪くはない。

* 多くの仲間と別れるのはつらかったけれど、おれはやめようと決めた。多くの、いまだに整理できない、理由がある。それはまた後で述べる機会があれば整理してみよう。とにかく、少しごたごたした後で、おれは戦線を離れた。そして、血のついた手足を洗い、食うために仕事を探したのだ。だけどなかなか職がない。どこ行っても1週間もすると公安のデカが張り付いてくる。すぐ会社の社長に知れるわけで、どこ行っても2.3週間で首になった。こりゃあいかん、とかなりおいつめられたと思った(なにせ金が一銭もなかったから)。まともな職場には行けないだろうと観念した。とにかくハエのごとくうるさい公安に、俺はもう足を洗ったんだ、組織とは切れたんだ、と分からせるほかないとおもったんだ。それに追いかけてたのは権力だけじゃなかったからね。みっともなくテロられたり、新聞ネタにでもなったりしたらアウトだから。1年ぐらいフラフラしながら食いつないでしのいだってわけだ。たいへんだったのはアパート。ことごとくデカにおそわれた。しかも公安、本庁、所轄、ばらばらだけどみんな来るんだよね(これはたて割りで意志の疎通ができてないみたい。)。日本の警察はこの辺は徹底している。というか60年代後半からアパートローラーのシステムができあがっていたからね。で、えーと、2年ぐらい逃げたりしのいだりしているうちにカメラマンの口を見つけたんだ。都合のいいことにそこのチーフが元京都大の赤軍のシンパらしかった。それでもって面接したらあっさり採用されたってわけ。カメラなんてリコーオートハーフしかさわったことなかったのにねえ。だから、後年よく聞かれて答えるのだけれど、カメラマンはそれをめざしてなったわけではない。他に才能も、つても、コネもなにもないおれが食って行くために選択した残り少ない就職口のひとつでしかなかったのだ。
* しばらくして、やっとこさ、なんとか生きていけるかなあと思った。
* で、そこでアシスタントを2年やらしてもらった。。いいとこやったな。1から10まで手取り足取り教えてくれた。いまでも感謝しとる。ありがとさんでした。札付きをやとっていただいて(笑)...。
* で、無謀にもたった2年で独立してしまった。申し訳ない。このあたりなど写真の世界など何も知らないで飛び込んだ者の浅はかさであったのだろう。
* 独立して2年後、六本木に事務所設立。1982年だったかな。
* 物撮りや建築写真など、広告写真全般を撮っていた。けっこううまいこといっぱい仕事をさせていただきました。年収もかなりあったけど、ほとんど飲んだくれて....。
* 84年。JPS 展に今の「幻色の都」の写真の原形である写真を出品したら入選をもらった。そのころもちろんパソコンなどなく、フィルターとマスキングと多重露光をつかって制作したものだ。
* 93年。アートボックス大賞展に出品。これも入選をいただいた。これはもうほとんど今の作品に近い。それでもまだアナログ作品である。
* デジタルをやりはじめたのは97年ごろである。
* 99年。スタジオを恵比寿に移転。

* 追記 
* ブント同窓会なるものが某ホテルで盛大?に開催されたらしいけど、ほんとにオメデタイなあ、こいつら。ふぉんとに!無責任というか、なーんにも考えてないと言うか...。デタラメで無責任な、学生気分丸出しで(労働者に何の根っこも張らず)ブントなるカクメイ党を作ってしまったという、そういう根源的なものこそ赤軍、果ては連赤なるお化けを作ってしまったのだとは誰も思わないらしい。荒(日向)の「ハテンコー伝」なる駄文をみればブント(2次ブントではあるがたいして違わない。それでもアラなんて1次ブントの島とかキタさんとかにくらべたらどうしようもなく矮小であると思うが)のトップなるものがかなりいい加減であったというのがわかろうというもの。赤軍なんて子供のマンガである。軍だけの党なんてあほらしい。大衆を組織しないカクメイウンドーなんてばからしい。こういう子供を産み落としたのはブントだ。そっから総括したらどうなんだ?!何も考えずまたぞろただ気分的にブントを再結成しようったって、また同じ轍を踏むだけだべさ。カクキョウドーも同じ。**派の指導部の中に未だにクロカンを払拭しきれていない者がいることを知ったのはおれもそういう立場の連中と少しは直接話できるようになってからのことであり、唖然としたものだ。今だから言えるけれど、**派のセンソーのやり方はどんどん□○に似てきたのである。現場の兵隊はとっくに気付いていたのだ。シドウブの感覚の方が麻痺していたのだ。「他党派を一掃し指導権を握る」、...、□○の他党派解体論とあまり変わらない一歩まちがえばおっかない路線だ。なぜならこの思想は外部だけではない。内部にも適用されうるのだから。ただ**派は、その後、戦闘的な闘争を展開した。だからこそおれも違和感を持ちながらも、多少はしょうがない、と思ってやってきた。シドウブが「ぎりぎりのおっかない路線だぞ」という意識をしっかりもってやればそんなにまちがわないとも思っていた。でも違うのだ。カクキョウドーのシドウブのなかに、そうではなくて肯定してやっているものがいたのだ。クロカン組織論の盲目的実践者が。(カクキョウドーのシドウブ内にもクロカンを批判しきれていない人間がいたというのはおれには驚きであった。ヒドイね。クロカンなどとるに足らない、というかあまりに稚拙な観念論だよ。「プロレタリア的人間」とか「共産主義的人間」とはいったいなんなのだ。「革マル主義者」という「前衛党」の拡大運動こそがカクメイウンドウだとする組織運動論をなぜ否定できないか。「他党派解体-小ブル諸雑派一掃」というあきれた論理になぜすりよるのか。連赤を生んだブントも同列である。「内ゲバ反対論」の四トロなどもっとお話にならない。共同で粉砕すべきであったはずなのに何を言っていたのだ。埴谷雄高や久野収らの「文化人提言」の連中も的はずれである。今にして思えばもっとしっかりと全面的にクロカン理論を批判しつくすべきであったと思う。クロカン理論とはカクマル以外のあらゆる運動を許さない運動なのだ。その上、「大衆」は「カクマル前衛党」に指導さるべき「無自覚な存在」なのだから恐ろしく始末に悪い。こんな大衆蔑視の思想などマルクス主義とは相容れない。...だから、問題なのである。このクロカンもまたマルクスを読み間違えてこんなになってしまったのだ。ML思想の見直しは絶対必要だ。)れーにんの末期を思い浮かべてしまう。敵に勝つためには党組織はこうでなければならない、でもこの党の形態は危ないものだぞ、と、れーにんは意識していた。特にすたーりんが力をもちはじめてからはよけいに意識していた。だから後期には「中央委員会の100人化」とか必死になって暴走しないように歯止めをかけようとしたのだ。でも遅かった。れーにんは自分の路線によってすたーりんをもって追放され指導権をにぎられたのだ。賢明なれーにんが元気ならば問題なかった、たしかに。でもそういう問題ではない。「れーにん」はそんなにいないのだ。匹敵するようなひとがいても倒されたら終わりなのだ。だからちがう。ちがう思想、ちがう組織論が必要なのだ。アオカイなら、だから「ローザ」なんだというかもしれない。でもちがう。そうでもない。ローザは矛盾している。アオカイも同じあやまちを犯しているではないか。アオカイ同士でみにくい××をやっている。問題はやっぱり本家のMなんだよ。だってほら、□○はれーにんを読まないよ、まるで。で、だから...、ちがう思想が必要なんだ。