マル共連傑作選-2 『95年 山谷争議団分裂』 | 北のりゆき☭遊撃インターネットのブログと小説

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 マル共連傑作選-2 『95年 山谷争議団分裂』
 下の文は、今は無き共産趣味者の拠点『マル共連』の掲示板に投稿されたものです。内容が良いと思われたものを別に保存していたため『マル共連』消滅後も 生き残りました。その内いくつかを『マル共連傑作選』として公開することにしました。誤字・脱字は、読むことが困難にならない限りあえてそのままにしています。
 今となっては書きこみをされた方と連絡をとることは不可能なため、無許可転載です。不都合がありましたらご連絡下さい。適切な処置をとらせていただきます。

 なお、二名の死者を出した日雇全協山谷争議団の戦いは、『日雇全協~山谷争議団の戦い1983~1985 山谷争議団:対金町一家闘争史』に詳しく書かれています。
http://blogs.yahoo.co.jp/huwawatanpopo2010/33539063.html
 
                                              北のりゆき・鉄砲先輩
----------------------------------以下転載

95年 山谷争議団分裂
お名前: ジェルジモルダ
登録日: 2000年7月3日14時40分

>  山谷争議団から内ゲバによって分裂した解放派寄せ場戦線(現山茂派)のキャップである鈴木ギャー氏の詩集を発見しました。
>  とあるのですが、その内ゲバあたりの事情をおしえていただけないでしょうか?

きじむなさん、こんにちは。
長くなりますよー。

90年代に入って、金町一家との抗争も力関係が固定化して新しい展開もなく、山谷の運動は新たな飛躍を求められました。革労協は山谷の中で「反戦・反失業をたたかう山谷労働者の会」という独自枠を作って、全体として全都の野宿者を射程に入れた反失業闘争を展開しようという山谷争議団の方針にセクト的反発をして、「金町戦のさらなる戦闘的展開」「炊き出しなどの野宿者救済運動反対」などの方針を振りかざして、非革労協活動家との関係はどんどん悪化していきました。

とゆーか、この頃の革労協は大衆運動戦線において、「独裁をやるかケツを割るか」という方針で、日韓、戦後補償運動などなどで、次々分裂を強行していきました。

95年の10月に争議団会議で、鈴木氏と青系活動家が暴行を働き、山谷労働者福祉会館3階事務所を突如占拠しはじめます。このとき、鈴木氏は「新生山谷争議団」を名乗って、鈴木氏一人が他の10人のメンバーの「除名」(笑)を宣告しました。

95~96越年闘争直前、山谷争議団のビラまきに、鈴木氏ら十数人が妨害、暴行を働きます。私服はしばらく傍観していたようですが、最後に「田中!」「山田!」「斉藤!」(注 名前はテキトーです)と十数人の名前を呼び上げ、「よせ!やめろ!革労協からひけ!」と、叫んだそうです。もちろん学生支援はみんな覆面です。怖い話だ…。

そして、いよいよ越年闘争に突入。「新生争議団」は玉姫公園で、山谷争議団は城北福祉センター前で、それぞれ越冬闘争をおこなうことになりました。全国からのカンパ物資や、炊き出しのための道具は福祉会館に置かれているので、山谷争議団側の労働者と支援10数人が、恐る恐る福祉会館に道具などを取りにいこうとします。

突如、福祉会館から飛び出してきた、青部隊。一升瓶を投げつけ、金属バットを振りかざし、襲撃。労働者も含めて怪我人が続出しました。この襲撃を聞きつけ労働者も福祉会館前にどんどん集まってきました。
そして夕方、争議団側はおよそ200人で棍棒で武装して福祉会館へ突撃!警戒にあたっていた機動隊をボコボコにして会館を包囲する200人の労働者部隊。このとき、福祉会館には、5、6人ほどしか残っていなかったみたいで、窓から一升瓶を投げまくって、青側は必死の防戦。
争議団側が次々と福祉会館に突入した直後にマンモス交番から機動隊が規制に入る。結局、福祉会館に突入した人も機動隊につまみ出され、争議団の福祉会館奪還はなりませんでした。

その後、蜂起派系の「共闘委」、熱田派系の「山労連」、ノンセクト系の「有志の会」がそれぞれ防衛隊を編成して、青の襲撃に備えました。山谷争議団にとっては、機動隊、金町、そして革労協と三つの敵と対峙する越年闘争になったのです。
ちなみに革労協指導部は、この木元・鈴木グループの所業に激怒していました。とくに反安保労研などの活動家など。福祉会館の占拠によって、キリスト者と敵対するのはマイナス、という判断もあったようです。拙者は革労協分裂の一つの要因に「山谷問題」があると思っています。

何度かの小競り合いはありましたが、双方の連日の活動家動員によって、それ以降は大きな衝突もなく、越年闘争は過ぎていきました。
青側で焚火にあたっていた労働者は「お前スパイに来たんだろう」とすごまれたりしていました。拠点構えてるから焚火にあたっているのに、労働者も驚いちゃうよなぁ…。
かたや、争議団側の越冬拠点で支援部隊が警戒にあたっていたら、帽子、グラサン、マスクのいかにも青ーっ!というかんじの二人組みが近づいてきました。緊張する防衛隊。青は防衛隊を見つめて、「間違えたよ…」(爆)。「お前らこっちじゃないぞー」と防衛隊に言われて、学生は「すみません」と謝ったそうです。逆なら、拉致・監禁・リンチだよなー。

そして、福祉会館の占拠は解かれましたが、「新生争議団→山日労」と山谷争議団の分裂は固定化され、今日に至っています。
96年の北原派旗開きの際、当然かち合う、革労協と蜂起派。案の定、怒鳴りあいになり、仲介に入った北原氏、萩原進氏、中核派。中核立会いのもと、両派から反対同盟が「事情聴取」をおこないました。蜂起派から、革労協の所業を聞いた中核派の活動家は、腕を組んで深刻そうに「考えられないことだ…」(核爆)とつぶやいたそうです。 
 
山谷争議団は、この分裂騒動の直後に新宿の強制排除阻止闘争の高揚を勝ちとります。鈴木氏らは「乗り越えられた!」と思ったのでしょう。鈴木グループが影響力を持っていた隅田川近くの高速下テント村が、工事による一時立ち退きを要求された際に、「新生争議団」は実力阻止の方針を打ち出します。
しかし、テント村のリーダーは酒を持参して説得に来た道路公団の担当者と意気投合、一時立ち退きへの協力を快諾してしまいました。激怒した、鈴木氏、木元氏。そのテント村のリーダーをリンチにかけ、全治6ヶ月の重症を負わせるという、凶行を働きました。

以上が、山谷争議団分裂の経過です。

(おまけ)
「恐れを恐れるな!」
 恐れを恐れるな!
 恐怖を友とせよ。
 いざ出発!
 おれの友だちは恐怖!
 そうだ!
 長いつきあいだったじゃないか!
 それは
 ポリ公ではなく
 国家権力ではなく
 ファシズムではなく
 これらのものに長い間虐げられてきた声 
  にならない声なのだ。
 その声を発する者たちの日の目を見るこ
  となく消し去られてきたあふれんばか
  りの生なのだ。
 
 山谷 やられたらやりかえせ