葵の上にとりつく生き霊

 

本文「嘆きわび空に乱るる我がたまを

                        結びとどめよしたがひのつま」

現代語訳訳 「悲しみに耐えかね、体から抜け出て空に迷っ

 ている私の魂を、下前の褄を結んでつなぎ止めてください」

 

本文 と宣ふ声、気配、その人にもあらず変はり給へり。

「いと怪し」とおぼし巡らすに、ただ、かの御息所なりけり。

現代語訳 と言う、その声や感じは、葵の上ではなく全くの

 別人である。不思議に思って、源氏があれこれ考えると、

 まさしくあの御息所だった。

 

本文 あさましう、人のとかく言ふを、「よからぬ者どもの

 言ひ出づることと、聞きにくくおぼして宣消つを、目に

 見す見す、世にはかかることこそはありけれ」と、疎まし

 うなりぬ。

現代語訳 源氏は、人があれこれうわさするのを、ろくでも

 ない連中の言うことだと不快に思い、否定していたが、ま

 ざまざと生き霊を目にして、この世に実際こんなことはあ

 るものなんだなあ、と背筋が寒くなった。

 

                    

 

本文「あな心憂」とおぼされて、「かく宣へど誰とこそしら

 ね。確かに宣へ」と、宣へば、ただそれな御ありさまに、

 あさましとは世の常なり。人々う参るも、かたはらいた

 うおぼさる。

現代語訳 ああ嫌なことと、源氏は生き霊に向かって「そう

 言うが、あなたが誰だかわからない。はっきり名乗っても

 らおう」と言うと、答えるようすが全く御息所その人なの

 で、あきれるどころの話ではない。源氏は、女房たちが側

 へ近づくのも、物の怪の正体がばれはしまいかと、はらは

 らしていた。

 

        角川ソフィア文庫ビギナーズクラシックス

                日本の古典源氏物語より