葵の上にとりつく生き霊

 

本文 御手を捉えて、「あないみじ。心憂き目を見せ給ふかな」

とて、物もえ聞こえ給はず泣き給へば、例はいと煩はしく恥づか

しげなる御まみを、いとたゆげに見上げて、うちまもりきこえ給

ふに、涙のこぼるるさまを見給ふは、いかがあはれの浅からむ。

現代語訳 源氏は、葵の上の手を取って、「ああ、なんてつらい

思いをさせるのだ」と言ったきり、あとは泣くばかり。葵の上は

いつもは近寄りがたく、気後れしそうな眼差しなのだが、今はと

てもだるそうに源氏を見上げて、じっと見つめていた。その目か

ら涙がこぼれてきた。それを見て、どうして情愛をかきたてられ

ないことがあろう。

 

本文 あまりいたう泣き給へば、「心苦しき親達の御ことをおぼ

し、またかく見給ふにつけて、口惜しうおぼえ給ふにや」とおぼ

して、「何ごともいとかうなおぼし入れそ。さりともけしうはお

はせじ。いかなりとも必ず逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ。大

臣・宮なども、深き契りある中は、巡りても絶えざなれば、相見

るほどありなむとおぼせ」と慰め給ふに、

現代語訳 あまりに激しく葵の上が泣くので、源氏は、両親の今

後を思ったり、自分に会ったりして、これが最期かと、無念に思

うのだろうと察した。「そんなに思い詰めてはいけないよ。病状

はそう悪くはないからね。たとえどうなろうとも、夫婦は必ず来

世でも会えるというし、親子の縁も生まれ変わっても切れないも

のだそうだから、またきっと会えると思いなさい」と慰めた。

 

 

本文「いであらずや、身の上のいと苦しきを、しばし休め給へと

聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ

人の魂は、げにあくがるるものになむありける」と、懐かしげに

言ひて、

現代語訳 すると、「いえ、そうではありません。とても苦しい

ので、しばらくお祈りを止めてくださいと言おうと思って。ここ

にこうして来ようとは思ってもみませんでしたのに。もの思いす

る人の魂は、本当に体から抜け出すものだったのねえ」と、そば

に近寄りたそうに言うと、         次回につづきます

 

 

         角川ソフィア文庫 ビギナーズクラシックス

            日本の古典 源氏物語より