晃司の暴力は終わりを見せることはなかった。



明け方強制的に行われる性行為に、愛良は不眠症になっていた。

例え嫌でも、拒めば責められ、怒られる。

腕を無理に押さえつけられ、晃司の腕と身体に組み敷かれ

愛の欠片もない性欲処理の為だけの挿入。

身体の痛みは変わらずだったが、心の痛みはもはや感じなかった。



不思議なことに、この頃になると愛良の感覚は麻痺していた。

晃司のいうことを聞いてさえいれば晃司は怒らない。

いいこでいれば晃司は優しい。

怒られたくない防衛本能からか

折角の家族を手放したくない気持ちからか

愛良は自分の気持ちを偽り人形になることを覚えてしまった。

もうそこには愛良が望んだ幸せな結婚生活は存在しなかった。



晃司の暴力は日増しに悪化していた。

買い物に出かけるまでは機嫌がよかったのに

ちょっとしたことで外出先でも怒りを爆発させるようになる。

その結果、たくさんの人が見ている中で罵倒され

鞄を投げられ、置き去りにされることも珍しくなかった。

人々の哀れみと好奇の目に愛良は耐えるしかなかった。

またある日にはこんなこともあった。

車で出かけている途中に晃司と口論になり

じゃあ死ねよと赤信号に猛スピードで突入されたこともあった。

あの瞬間愛良は確かに死を予感したが

運良くも怪我一つ負うことはなく家路に着いた。



もっとも嫌な思い出として愛良の心に残る旅行がある。

東京ディズニーランド。

拓の2歳の記念日の思い出の旅行になるはずだった。

だがそれは最悪なものに変わり果てた。

方向音痴の愛良はよく道に迷う。

視力の悪い愛良はよく人を見失う。

それは親しい人間ならば誰でも知っている周知の事実。

そしてこの時も愛良はトイレにいった後道に迷ったのだ。

やっとの思いで合流した時、晃司は愛良を罵倒した。

「なんで俺の傍を離れた!離れるなといっただろう!」

そう叫んだあと、晃司は愛良の髪を力強く引っ張った。

あまりの痛みと、周囲の視線に晒された羞恥に涙が出た。

どうしてこんなことをされなければならないのだろう。

悔しくて、恥ずかしくて、怖くて、涙が止まらなかった。



晃司と共にいることが、どんどん怖くなっていった。

月日は流れ、拓は1歳になった。

片言だけど言葉を覚え、ふらふらと自分の足で歩き出し

子供でいえば可愛い盛りだ。



夫婦生活は既に冷え切っていた。

いや、その言い方は正しくないかもしれない。

冷え切っていたわけではなく、悪化していた。

晃司は日に日に暴力的になりつつあった。

そこにはきっといろんな鬱憤があったのだろう。

婿のような形で入り込んでしまった姑へのストレス。

夜勤へと変わった仕事へのストレス。

妻としての義務を果たせずにいる愛良へのストレス。

いうことを聞かない盛りの拓へのストレス。

いろんなストレスを抱えた結果、晃司は暴力でそれを発散した。

暴力に訴える先は愛良であり、拓であり、弱気者だった。



ある日愛良は仕事から帰宅して拓の異変に気付いた。

愛良の顔を見た途端、拓は泣いて抱きついてきたのだ。

「どうしたの?拓」

ただ泣くだけで拓は何も言わない。

「どこか痛いの?怖いの?」

愛良の胸に顔を埋め、それでも拓は泣き叫ぶだけ。

そして愛良は気付いた。

抱きついてきたのに拓の右手はぶらりと下がったままなことに。

「・・・・拓?」

恐る恐る、嫌な予感を打ち消しながら、愛良は拓の右腕を掴む。

そのとき発した拓の悲鳴はすさまじいものだった。

泣き叫ぶ拓はそれでも痛いとは言わない。

泣き叫ぶ拓を抱え、愛良は急いで夜間病院に向かった。



「脱臼してますね」

拓のレントゲンを取り終えた医者は愛良をみてそういった。

「脱臼するようなことをなにかされましたか」

脳裏に浮かぶのは出かける直前の母親の言葉。

・・・・・・晃司君が、拓を叱る時に腕を引っ張っていたよ。

虐待?

嫌な言葉が頭に浮かんだ。

「強く引っ張られたような抜け方をしています」

医者の目は人為的におきた脱臼ですよと物語っていた。

愛良は父親が腕を少し強く引いてしまったのだと説明した。

「児童保護センターに連絡を取らせてもらいますね」

児童保護センター。

虐待。

ニュースの中のような単語が脳裏に浮かんでは消えていく。

怪しい患者が来た場合記録として残すことが医者の義務だ。

そう医者は言った。

一度目は連絡だけですむが、二度目はそうはすまないとも。

腕をはめてもらい痛みがなくなった拓が腕の中で眠っている。

(虐待されたのね、拓。

それは見過ごせない現実だった。

小さな小さな命が、鬱憤の為に力を受けている。

それは許せない現実だった。



晃司はもう優しいあの頃の晃司ではない。

その現実が愛良の心に深く突き刺さっていた。


最初の1年。愛良はとても幸せだった。

お金がないから結婚式も挙げず、指輪もなく、

愛良の実家に転がり込んだ新婚生活だったけれど

それでも愛良は幸せだった。

拓がいて、晃司がいて、かけがえのない家族がいるから。

だから愛良は幸せだった。



晃司の仕事が夜勤に変わり、2人の時間にすれ違いが出始めた。

会話を交わす機会も減り、触れ合う時間も減る。

拓はその頃夜鳴きが始まり、眠れない毎日に愛良は苛立っていた。

ままならない育児。

息苦しい毎日。

どうして自分だけがこんなに育児で苦しむのか。

愛良の精神状態はギリギリのところにいた。

それなのに晃司は毎晩のように身体を求めてくる。

そんな気持ちになれないのに、そんな体調じゃないのに。

説明しても晃司にはわからない。

女の苦しみも、母親の辛さも、男である晃司にはわからない。

義務のようなセックス。拒むことは許されない。

産後でまだ女として戻っていない身体は痛みに悲鳴を上げる。

ハヤクオワレ。ハヤクオワレ。

呪文のように呟く夜が続いた。



ある夜、愛良は耐え切れずやりたくないと晃司に告げた。

「身体が痛いの。だからまだそういうことはできない」

わかってくれるだろう、そんな期待があった。

だが返ってきた言葉は無情なものだった。

「ふざけるな。セックスは妻の義務だろう」

愛良の心が凍りついた。

義務?セックスは夫婦の義務?

セックスは愛の延長だと思っていた。

愛してくれているからこそセックスするのだと思ってた。

だからこそ、痛くても我慢して受け入れていた。

「入れたくないなら口で奉仕しろよ。女房だろ」

もう何もいう言葉はなかった。

晃司にとって妻は道具なのだ。

性欲を処理する為の道具。家事をさせるための道具。

そこに愛はない。私に対する愛はないのだ。

そのあとはもうされるがまま言いなりになった。



愛良が身体を拒むと、晃司は力に任せて行為を続けた。

深夜でも、朝方でも、したい時に晃司は力ずくでねじ伏せる。


その度に愛良の心は音を立てて壊れていくのだった。

初めての産婦人科。

18歳の愛良にとってはなんと敷居の高いものか。

不安と恐怖を抑えきれず、愛良は姉と同じ病院を選んだ。

妊娠かどうか明確にする初めての大事な診察なのに晃司は来ない。

妊娠というイベントは晃司の中では進行していないように思えた。

初めての診察。

初めての超音波。

モニターの画面に映る黒い小さな塊。

「おめでとう。これが貴方の赤ちゃんよ」

カーテン越しに先生の声がする。

自分の中に小さな命が宿っている。

その事実に、愛良は感動ではなく、恐怖を感じた。

「出産はこちらでなさいますか?」

診察を終えた先生が聞いて来る。

(おろす選択肢はないんだ)

どこかぼうっとした頭で愛良はそんなことを考えていた。



会社を辞めて、晃司と籍をいれて、晃司が愛良の家に引っ越してきて。

めまぐるしく毎日が過ぎていった。

夢見ていた結婚式もなく、披露宴もなく、記念の写真すらなく。

婚約指輪も、結婚指輪もない、2人の門出。

何もいらないと思っていた。

晃司がいてくれて、子供が居てくれたら、それだけでいいんだと。

きっと幸せになれる。そう信じていた。



季節は巡り、やがておなかも脹らみ、訪れた出産の日。

晃司は陣痛に苦しむ愛良の手をずっと握り締めてくれていた。

分娩室にも一緒に入ってくれ、手を握り、励ましてくれた。

3.124グラムの男の子。

小さな我が子の誕生を一緒になって喜んだ。

だが男の子は愛良の手に抱かれることはなく保育器に運ばれた。

生まれたばかりの赤ん坊には不整脈の症状が見られていたのだ。

母親である愛良はおろか、看護婦以外は触れることを許されなかった。

保育器の中でたくさんの管に覆われ眠る我が子を窓越しに見る日々。

抱いてもやれない。乳もやれない。不甲斐ない自分。

幼い自分が産んだからこのこはこう生まれたのだろうか。

不安と、悪い考えばかりが浮かんでいく。

それから一週間。

赤ん坊を抱いて暮らす母親に囲まれた病室で愛良は一人で過した。

退院後は家で母乳を搾り、凍らせて子供の入院する病院まで運んだ。

やっと我が子を抱くことができたのは1ヵ月後のこと。

「拓・・・・」

初めて我が子を腕に抱きしめ、その名を呼んだ時

初めて愛良の胸に愛しさが込み上げた。

「拓・・・・!」

乳房から乳を飲む力が思ったより力強くてほっとした。


このこは生きている。

今日からこの子と生きていくんだ。


妊娠。

その事実は愛良を激しく動揺させた。

何度確かめても結果は陽性。逃れられない現実が押し寄せては消えていく。

「どうすんの?」

晃司が聞いた。

どうするの?どうすればいいの?どうするのが正しいの?

心の中で自問する。

生みたいの?生みたくないの?

わかんない。わかんない。ただ怖い。どうしたらいいのかわからなくて怖い。

愛良はしゃがみこんだまま流れる涙を止められずに居た。



数日後、愛良は母親に話すことを決意した。

「お母さん・・・実はね・・・」

晃司は隣に居ない。仕事だから?怖いから?理由はわからないけど居ない。

こんな時ほど傍に居て欲しいのに、居てくれない彼がにくい。

「私妊娠したの・・・」



その時交わした会話を愛良は鮮明に覚えてはいなかった。

一つ一つの会話、動作が断片的にしか思い出せない。

ただ覚えているのは、母親に振り下ろされた拳。

殴られた頬が痛かった。

「この親不孝もの!」

叫ばれた言葉が痛かった。

「おろしなさい!」

母親は言った。

「子供が子供を生んでどうする。下ろしなさい。育てられやしない癖に」

あのとき感じた気持ちはなんだったんだろう。

怒り?悲しみ?

きっと怒りだ。

私を愛してくれなかった貴方が、

私を護ってくれなかった貴方が、

私を育ててくれなかった貴方が、

それを私に言うのか。


ソダテラレヤシナイクセニ。


「私産む。産むよ」

それは母親に対する反発から出た言葉だった。

産みたいなんて思ってなかった。

でもその瞬間、産まなければならないと思った。

私には家族がなかったから。

このこはやっと手に入れた家族なのだから。

産んでやろう。産んでみよう。

そしたらきっと、私は寂しくなくなるから。

孤独から解放されるのだから。