高校卒業したばかりの18歳の年。


6歳上の姉が妊娠した。

「ご飯のにおいを嗅ぐと吐き気がしちゃって大変なの」

そんな話を聞きながら、その時はまだ自分に同じ事が起きるなどと思いもしてなかった。

18歳の愛良は生理が不順で、月初めにくる時もあれば、下旬にくるときもあり、いつも最終月経日から1週間程度のずれ込みがあるのが当たり前のようになっていた。だからその時も生理がまたずれてるなくらいにしか思っていなかったのである。

だがある日、姉と母親とランチに出かけた愛良は注文したナポリタンの匂いに刹那的に吐き気を覚えた。

(なに・・・・?気持ちが悪い・・・)

脳裏に浮かぶのは姉の台詞。【妊娠したらご飯のにおいが気持ち悪くて・・・】

(もしかして私も・・・・)

今月の生理はまだ来ていない。じゃぁ、先月の生理は?思い出そうとするが思い出せない。先々月の末にきてそこから微妙にずれてきているから計算のしようがなかった。

だがナポリタンの湯気にこもる匂いは不自然なくらい吐き気を感じさせる。

「愛良?どうしたの?」

怪訝そうにこちらを見つめる姉の視線に我に返り、愛良は慌ててフォークを進めた。一口、もう一口と口に入れるたびに吐き気が込み上げたが、なるべく鼻で息をしないように心がけて愛良はその日のランチを無事にやり終えた。とりあえず怪しまれずにすんだ。そのことがせめてもの救いであった。


そのその夜。愛良は急いで晃司の部屋に駆けつけた。

生理がこないこと、吐き気がしたこと、妊娠したかもしれないこと。喉元に詰まる言葉を無理に押し出し愛良は説明した。どうしようもないほど愛良は動揺していた。喉の奥が焼けるように苦しい。泣いてはいないのにまるで嗚咽のように声が詰まる。そんな愛良を車にのせ、晃司は近くのドラックストアに向かい、2回分の妊娠検査薬を購入した。1回分では不確かだからと、晃司の勧めによるものだ。

帰宅してすぐ愛良はトイレで検査薬を使った。

結果は陰性。妊娠してはいなかった。

だが注意書きにあることを愛良は気に留めていなかった。妊娠していない。その現実にただひたすら安堵するばかりだった。

【使用上の注意。妊娠初期の場合は反応が陰性になります。後日生理がまだ訪れない場合は再度検査をおすすめします。生理予定日より3週間程度の猶予の後に調べることをえすすめします。】

その注意書きがなにを意味するか、まだ愛良はわかっていなかった。


そして数日後。早くも残りの検査薬を使う日がやってきたのである。

何気なくトイレに入った愛良は下着が血に汚れているのを発見した。

(生理がきた!)

それは喜びにも近かった。

だがその出血はその瞬間以降ぴたりと止まったのである。

夜になっても、翌朝になってもいつものような生理が始まらないことに愛良は困惑した。なぜ止まったのかわからなかった。

それは妊娠したことを知らせるおしるしという症状だった。

素直に打ち明けた愛良は晃司に二回目の検査薬を使うことを勧められた。

尿が浸透した検査結果表示欄には綺麗な赤い+の模様が浮かび上がっていた。

結果は陽性。

愛良は紛れもなく妊娠していた。

結果を見て、愛良はその場に崩れ落ちた。

(どうしよう。どうしよう。妊娠した。妊娠してしまった・・・)

嬉しいなんて気持ちは微塵もなかった。ただ怖かった。宿ってしまった小さな命に、ただただ、どうしよう、それしか思えなかった。できることなら気付かなかった事にしてしまいたい。なかったことにしてしまいたい。

けれどそれは偽りようのない真実なのだった。

晃司は愛良にとって初めてきちんとできた彼氏だった。

晃司は23歳。愛良は17歳。年の差は6。それは父性のような頼もしさをかんじさせたのかもしれない。父親の愛を知らずに育った愛良には無意識に父親像を男性に求める傾向があり、その結果年上の晃司がとても素敵な男性のように思えたのだ。

父親と母親の、家族の愛をかんじられなかった愛良は、いつも貪欲に愛を求めていた。


高校三年の夏。

一人暮らしをしていた晃司の部屋に通い、愛良は初体験を経験した。

身体を求められることは大切にされているような満ちたりた気持ちのように思えた。

晃司に好かれる為に愛良は頑張って大人になった。身体も、心も、大人になろうと心掛けた。我侭を言わず、理解のある振りをして、愛良は同世代より早く大人になった。寂しいとか、不安とか、そんな弱音なんかはけなかった。ああしたい、こうしたい、そんな欲求も胸に仕舞い込んで、晃司が楽なように、晃司がしたいように、ただそれだけ考えて行動した。そうしなければ晃司の愛が消えてしまうような気がしたからだ。

初体験もまたそれに当てはまることだった。晃司の想いにこたえ身体を委ねることで、晃司に近付き、晃司を引き止められると思っていたのだ。拒むことはできたのかもしれないが、拒めば愛は消えるような、そんな不安がいつも愛良の胸の中にはあった。

だからだろうか。セックスは愛良にとって最初から最期まで苦痛を伴う行為でしかなかった。そこには慣れない身体が生み出す痛みもあったが、痛みよりも虚しさが強かった。晃司の快楽を求める独りよがりの姿がソコには隠せず存在していて、快楽の為には愛良の感情は黙認されている事実が辛かったのかもしれない。きもちいいと感じる余裕もなく、実際きもちいいと思えることもなく、いつだったか無理に見せられたアダルトビデオの女優のように、愛良はいつも感じているふりを演じた。感じているような声を出しながら、いつも心の中では祈り続けていた。早く終わって。早く終わって。セックス、それは愛良にとって晃司の愛をつなぎとめるだけの苦痛の儀式でしかなかったのである。

その延長として、愛良は避妊をしない行為を受け入れることになってしまった。


そして愛良は妊娠した。


18歳。それは幼すぎる妊娠だった。

高校2年の春。

愛良は新しく仲良くなった友だちと下校時に必ずゲームセンターによるのが日課になっていた。セーラー服は、薄暗く騒音に満ちたゲームセンター内では一種異様な存在感を醸し出す。愛良達の通うゲームセンターは近隣の大学生の溜まり場で、普通ならば寄り付きもしない女子高生達がソコにたむろすることに、彼等は好意を持って接してくれた。それはただ単に珍しいだけかもしれない。当時流行っていた格闘技に愛良達も同じく興味を引かれ、大学生達に時に揉まれ、時に教わりながら、いつしか近隣では大抵知られている格闘ゲームをする有名女子高生になりつつあった。ソコにいけば知り合いが存在し、一人でいっても寂しいことはない。話し相手がいる。自分を見てくれる人がいる。それだけで愛良はソコがとても居心地のよい場所に感じていた。


高校2年の秋。

愛良は常連になったゲームセンターで一人の男性に出会う。

同じ系列の、別の店舗の店長。晃司であった。

晃司への初対面の印象は"影の薄い男だなぁ"それだけだった。陰気そうで、暗そうで、特にこれから自分に係りはないだろう。そんなことを漠然とおもった。

だがしかし、事態は予想もしないほうに変わる。

ちょうどその頃、目立ちすぎた愛良は俗にいうストーカーに悩まされていた。通っているゲームセンターのお客で、愛良をまるで自分の女のように言いふらしては、家まで追いかけてくる。はじめは好かれる事に悪い気はしなかった愛良だが、度を越した男の行動に次第に気味悪さを覚えていた。

そんな時助けてくれたのが晃司だった。

毅然とした態度で男に対峙し、出入り禁止の扱いまで踏んでくれた晃司に、愛良は感謝と共に強い好感を覚えた。初対面の印象など既に頭から消え去り、純粋に好意だけが胸に残っていた。

それからしばらく、愛良は晃司のゲームセンターに通い続けた。恋愛関係になろうというわけではなくて、純粋に兄のように慕っていただけなのだが、仕事ばかりで女っけの一つもなかった晃司が愛良に恋心を抱くまで、そう時間は掛からなかった。

愛される。そのことが愛良にとってどんな意味を持つのか。わかるだろうか。

愛されることを知らず、愛されたいと思い続けた少女が、初めて愛してるよと囁かれる瞬間。

それは魔法のように愛良の心を支配した。


愛されたから、好きになる。

そんな危なげな恋の始まりだった。

壊れっぱなしの家庭は愛良が16の時に崩壊した。

離婚届を母親に渡したのはほかならぬ愛良自身。夜毎暴力を受ける母を護ろうと止めに入っていたのは愛良だけで、兄弟は気にも留めずに閉じた扉の向こうで傍観を続けていた。お互いほかに相手を作り愛の欠片さえ見えない覚めた家庭にも、修復させようと試みない兄弟にも、別れたいと口にするばかりで別れようとしない母親にも、なにもかもに愛良は疲れていた。別れたいなら別れればいいじゃないか。私が小さいから、私が高校受験があるから、そんな言い訳ばかり繰り返して、結局は変わることが怖い情けない母親に嫌気が差していた。だから愛良は離婚届を自分で市役所までとりにいった。

壊れた家庭が他人になるまで、それは以外にもあっけないものだった。


大量に借金を作り父親は雲隠れした為、愛良の家には絶えず借金取りが押しかけた。築一桁の一見豪華な一戸建ての中で、借金取りから隠れるように電気もつけず、テレビもつけず暮らした数ヶ月。トイレを使うことすら禁止されて、惣菜のパックやスーパーの袋に尿をしたことも少なくはなかった。離婚成立後、愛良たちはそんな家から夜逃げするように逃げ去った。

豪華な一戸建てから、築50年の借家への引越し。たて付けの悪いドア。きたない畳。薄汚れた砂壁。公衆トイレのような匂いのする汚らしいトイレ。人生の転落とはこんなものか、16の夏、愛良は漠然とした脳裏でそんなことを考えていた。


引っ越してほどなくして、母親は夜の仕事を始めた。もとよりスナックやクラブでママをしていた母親は夜の世界にすんなりと馴染み、その日から兄弟ばかりの生活が始まった。とはいえ、高校も中退し遊び歩いてばかりいた兄は家にろくに寄り付かず、家にいても部屋から出てくることは滅多にな勝ったため、16の愛良と社会人になったばかりの18の姉の2人だけの生活に近かった。

夕方出勤する母親の仕事は深夜0時の閉店頃には終わっていたが、ストレスの為か、ただの趣味か、そのまま飲み歩く日々が続き、母親がいないまま朝を迎えることも珍しくなかった。晩御飯はいつも机の上においてある茶筒の中に入っている2人分の食事代千円で姉と愛良と2人だけの外食の日々。朝ごはんは愛良が作る当番になっていた。母親は帰宅していても布団から起きてくることは絶対無く、そのうち顔を合わせて会話する機会さえなくなっていた。


壊れた家庭が終わりを告げても、愛良に愛情が注がれることはやはりなかったのである。

愛良の家ははたから見ればごく平凡で、幸せな家族だった。

しかし現実には、父親は酒乱であり、浮気癖があり、酷く短気であり、夜毎繰り広げられる母親への暴力に泣き叫び止めに入る愛良の姿があった。幼い頃からそんな暮らしが続けられ、物心ついたときには父親は恐怖の対象でしかなかった。その分愛良は母親に愛を求めたが、母親もまた浮気に走り、酒に走り、愛良へ愛を注ぐことはなかった。


万引きをして母親の気を引こうとした小学時代。呼び出しを受けた母親はただ理由も聞かずに愛良を叱りつけた。

いじめられて居ることを告げられずに居た中学時代。学年全員からハブにされ、汚らしいもののように扱われ、友だちの一人もなく、孤立した中学時代。登校拒否になった愛良を、母親は甘えるなと学校へ追いやった。いじめに耐え切れず身体を壊した朝、学校へいきたくないから病気になるなんて狡賢い子だと、嫌悪するような顔で母親は愛良を見た。それから卒業までの三年間。愛良はいじめられていることを相談もできずにたった一人で耐え続けた。


心の声は母親に助けを求めていたけれど、母親がそれに答えてくれることはなかった。


愛良10代。それは愛に飢えた日々であった。