その日のでき心
紫 敷布
『浮気はその日のでき心、芸術もその日のでき心』と言ったのは、北大路魯山人だとか。
芸術はたしかに、その日その時のインスピレーションがひとつの形になったものであろう。
浮ついたその心も、その日、その時の、ある種のインスピレーションなのかもしれない。
「不倫は文化だ」などと言った男がいたけれど、浮気と不倫はちよっと違っているのではと、いつもの仲間オバサン軍団と電子辞書で検索してみた。やっぱり少し違っているようだ。
不倫とは=「道徳に反すること、また、男女の関係が人の道にはずれること」とある。
浮気とは=「ひつとのことに集中できなくて、興味の対象が次々と変わること」と言ったことであった。
また「移り気な性分で長続きはしない」ともある。
「浮気」なんとなく見逃してやっても良いような気がする。
「その日のでき心」なのだし、どうせ長続きはしないのだから、好きにやっていればいい。そのうちすぐに飽きるだろう。ただ単なる「でき心」なのだからほっとけば良いのだ。
ひとつのことに集中できない移り気な性分なのだから、気にすることはない。ほっとけば良いのだ。
多分男のそれは、食事時の箸休めか、あるいは、食後のほうじ茶かコーヒーのようなもので、騒ぎ立てるほどのことでもないのである。
がしかし、「浮気」というものは、果たしてどこまでが定義域なのだろうか、と言う話になるのだが、あくまでも「でき心」それはチョッとしたその日そのときのでき心なのは確かなことと我々オバサン軍団の一致した意見なのであるが、世間一般においてはいかなるものか?との疑問が残る訳だが……
「でき心」に対して妻たち、また恋人たちは、見て見ぬふり、知って知らぬ素振りを決め込むが賢明な対処法というものである。それこそが女を上げる場のひとつでもあるのだ。賢く行こう。
ギャアギャア喚いて事を荒立ててはいけない。何せその日の「でき心」なのだからいきりたつことはないのだ。
追い詰められればホン気になってしまうかもしれない。逃げ道を用意してやらねばならない。反省の機会を与えなければならないのである。
男たちの息抜きが「でき心」なのかも知れないしィと思えない訳でもないのである。
わたしたちは「でき心」を思いやれる稀有な存在であり、阿寒湖のマリモか、鶴居村の丹頂鶴か、天然記念物にも匹敵する希少価値のあるなんと素晴らしい存在なのかと、自画自賛の末、感激しながら勝手に盛り上がるのであった。
知らぬ素振りで浮気というそのでき心の不埒な行為の形跡を、何かのときのイエローカードとして確保しておくのが賢明である。
そして、それらをチラチラと「もしかしてヤバイかも」をちらつかせながら、手の平にころがしておくのだ。悪ガキが悪戯をしているようなものがその日のでき心なのだから。
その日のでき心。それにはそれなりのルールを心得ていなくてはならない。
互いの立場を尊重し、その立場を侵すようなことがあってはならないのだ。道徳に反することにならないために、人の道にはずれるようなことにならないためにも、ルールの心得は必要不可欠なのである。
その心得のない者は、人並みにでき心を試みてはならないのだ。
神代の昔から何事にも決まり規則、ルールというものが介在しているのである。それらを守るのが人の道の道なのである。
女房とはうまくいっていないとか、とうに冷め切っているとか、僕には君だけだよ、君が支えなのだとか、いずれ女房とは離婚するとか、そうは言ってもそんなことはない。いずれもないし離婚もない。
妻子を捨てるようなことはない。そななことがあったとしたら、また同じことを繰り返すただの男。
それはまったく男としての価値のないオトコである。
「僕には君だけだよ、愛しているよ」なんて陳腐なせりふを間違っても愛の言葉などと勘違いしてはならない。真に受けてはならない。そんなせりふは、はなからつまらない男の常套手段なのである。
そんな不確かな言葉に情念を委ねてはならない。そのような言葉を真に受けた瞬間奈落の底が待っているのだ。男の言葉に対して無知無防備であってはならない。
浮気、それは所詮その日のでき心なのだ。そのでき心に添おうとするならば、感情に押し流されることく、駆け引きとテクニックが必要となるのである。そのテクニックを身につけるのには、経験と時間と学習能力が必要なのだ。でき心に上手く添ってゆく度量なくして、そのでき心に添ってはならないであろう。とは言うものの、それらを酷使できる知恵としたたかさがあればなんのことはないのだが、いかんせん燃えてしまえば歯止めがきかず、感情のおもむくままに、ついつい無知無防備に流されてしまうらしいのだ。解からなくはないのだが……。
でき心のない男はまず皆無であろうと思うのだが、そのでき心を自身がどのように操るかによって事はさまざまなのである。
自身の立ち位置を確認の上事に臨んで欲しいのだが、時としてその立ち位置の見当がつかないまま行動してしまうのが発端となり、まったくややこしい状態になり収拾がつかなくなり、大騒ぎになってしまう場合があるのだ。
面倒な混乱を避けるためには、女たちは賢くしたたかでなければならないのである。
男を見る目を養うことは女の肝心要の知性でもあるのだ。
今夜も巷では坊やたちは、おいたのチャンスを狙っているだろうし、悪ガキたちは勇んで「その日のでき心」楽しもうとしているのだから。 完
紫 敷布
『浮気はその日のでき心、芸術もその日のでき心』と言ったのは、北大路魯山人だとか。
芸術はたしかに、その日その時のインスピレーションがひとつの形になったものであろう。
浮ついたその心も、その日、その時の、ある種のインスピレーションなのかもしれない。
「不倫は文化だ」などと言った男がいたけれど、浮気と不倫はちよっと違っているのではと、いつもの仲間オバサン軍団と電子辞書で検索してみた。やっぱり少し違っているようだ。
不倫とは=「道徳に反すること、また、男女の関係が人の道にはずれること」とある。
浮気とは=「ひつとのことに集中できなくて、興味の対象が次々と変わること」と言ったことであった。
また「移り気な性分で長続きはしない」ともある。
「浮気」なんとなく見逃してやっても良いような気がする。
「その日のでき心」なのだし、どうせ長続きはしないのだから、好きにやっていればいい。そのうちすぐに飽きるだろう。ただ単なる「でき心」なのだからほっとけば良いのだ。
ひとつのことに集中できない移り気な性分なのだから、気にすることはない。ほっとけば良いのだ。
多分男のそれは、食事時の箸休めか、あるいは、食後のほうじ茶かコーヒーのようなもので、騒ぎ立てるほどのことでもないのである。
がしかし、「浮気」というものは、果たしてどこまでが定義域なのだろうか、と言う話になるのだが、あくまでも「でき心」それはチョッとしたその日そのときのでき心なのは確かなことと我々オバサン軍団の一致した意見なのであるが、世間一般においてはいかなるものか?との疑問が残る訳だが……
「でき心」に対して妻たち、また恋人たちは、見て見ぬふり、知って知らぬ素振りを決め込むが賢明な対処法というものである。それこそが女を上げる場のひとつでもあるのだ。賢く行こう。
ギャアギャア喚いて事を荒立ててはいけない。何せその日の「でき心」なのだからいきりたつことはないのだ。
追い詰められればホン気になってしまうかもしれない。逃げ道を用意してやらねばならない。反省の機会を与えなければならないのである。
男たちの息抜きが「でき心」なのかも知れないしィと思えない訳でもないのである。
わたしたちは「でき心」を思いやれる稀有な存在であり、阿寒湖のマリモか、鶴居村の丹頂鶴か、天然記念物にも匹敵する希少価値のあるなんと素晴らしい存在なのかと、自画自賛の末、感激しながら勝手に盛り上がるのであった。
知らぬ素振りで浮気というそのでき心の不埒な行為の形跡を、何かのときのイエローカードとして確保しておくのが賢明である。
そして、それらをチラチラと「もしかしてヤバイかも」をちらつかせながら、手の平にころがしておくのだ。悪ガキが悪戯をしているようなものがその日のでき心なのだから。
その日のでき心。それにはそれなりのルールを心得ていなくてはならない。
互いの立場を尊重し、その立場を侵すようなことがあってはならないのだ。道徳に反することにならないために、人の道にはずれるようなことにならないためにも、ルールの心得は必要不可欠なのである。
その心得のない者は、人並みにでき心を試みてはならないのだ。
神代の昔から何事にも決まり規則、ルールというものが介在しているのである。それらを守るのが人の道の道なのである。
女房とはうまくいっていないとか、とうに冷め切っているとか、僕には君だけだよ、君が支えなのだとか、いずれ女房とは離婚するとか、そうは言ってもそんなことはない。いずれもないし離婚もない。
妻子を捨てるようなことはない。そななことがあったとしたら、また同じことを繰り返すただの男。
それはまったく男としての価値のないオトコである。
「僕には君だけだよ、愛しているよ」なんて陳腐なせりふを間違っても愛の言葉などと勘違いしてはならない。真に受けてはならない。そんなせりふは、はなからつまらない男の常套手段なのである。
そんな不確かな言葉に情念を委ねてはならない。そのような言葉を真に受けた瞬間奈落の底が待っているのだ。男の言葉に対して無知無防備であってはならない。
浮気、それは所詮その日のでき心なのだ。そのでき心に添おうとするならば、感情に押し流されることく、駆け引きとテクニックが必要となるのである。そのテクニックを身につけるのには、経験と時間と学習能力が必要なのだ。でき心に上手く添ってゆく度量なくして、そのでき心に添ってはならないであろう。とは言うものの、それらを酷使できる知恵としたたかさがあればなんのことはないのだが、いかんせん燃えてしまえば歯止めがきかず、感情のおもむくままに、ついつい無知無防備に流されてしまうらしいのだ。解からなくはないのだが……。
でき心のない男はまず皆無であろうと思うのだが、そのでき心を自身がどのように操るかによって事はさまざまなのである。
自身の立ち位置を確認の上事に臨んで欲しいのだが、時としてその立ち位置の見当がつかないまま行動してしまうのが発端となり、まったくややこしい状態になり収拾がつかなくなり、大騒ぎになってしまう場合があるのだ。
面倒な混乱を避けるためには、女たちは賢くしたたかでなければならないのである。
男を見る目を養うことは女の肝心要の知性でもあるのだ。
今夜も巷では坊やたちは、おいたのチャンスを狙っているだろうし、悪ガキたちは勇んで「その日のでき心」楽しもうとしているのだから。 完