啄木とロックミュージシャン 紫 敷布
冷夏の夏といわれる釧路の夏も、今年は暑い暑い夏らしい夏であった。
暑いといってもせいぜい三十度を1、2度越える程度の暑さで、それも数日のことである。
猛暑に苦しむ地域からみれば、涼しい贅沢な夏を過ごしている訳だ。暑いなどというには申し訳ない気温なのである。9月になってもこの時期、釧路ではあり得ないような28、9度の気温が続いていて、ススキの穂は衣替えを忘れた様子であったが、中秋の名月を目前にあわてて秋の装いを整え始めたようである。
スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋、そして、何故か郷愁をそそる侘びさびの芸術の秋、ふと和歌など一首試みたくなる心境である。
十五夜の月に魅せられ仰ぎ見て
われは一夜の歌人となれり 紫 敷布
すっかり芸術的趣の今日この頃である。
釧路はあの天才歌人、石川啄木に造詣の深い土地なのである。
さいはての駅に下りたち雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき (一握の砂・忘れがたき人々より)
新聞記者でもあった薄幸の天才歌人石川啄木は、明治四十一年一月二十一日の夜『釧路新聞社』現北海道新聞社に赴任のため釧路駅に着いたのだった。
そして、洋風窓のある関下宿屋の一室を、釧路での生活の拠点としたのは、厳寒の季節であった。
北国の寒さは想像以上であり、ただひとり無縁の地の住人となることの侘しさがあったのかもしれない。 『二階の八畳間、よいへやではあるが、火鉢ひとつを抱いての寒さはなんともいへぬ』と日記に記している。
こほりたるインクの壜を火に翳し
涙なかれぬともしびの下
と一首詠み、七十六日間の釧路での生活が始まったのであった。
在釧時には記者として、百本の様々な記事を残し、短歌六十首、釧路の日々を素材にした小説『菊池君』『病院の窓』などがある。
釧路での有意義な対人関係はもとより、野口雨情、金田一京助、若山牧水等との親交の厚かった、天才歌人石川啄木の釧路での足跡、そしてこの希代な文化遺産を、現地に居ながらあまり知られていない現実、多くが見逃している現状はなんとも残念であり、もったいないことである。
この地釧路には二十余基の啄木の歌碑がある。
啄木が残したこの貴重な文化遺産を、もっと広く深く考えなくてはならないと想う初秋の宵である。
正岡子規、高浜虚子等の俳人を輩出した愛媛県松山には、ごく当たり前のように至る所に俳句ポストがあると聞く。
釧路も見習わなくてはならない。地域を愛し地域の文化をだいじにし、そして日本の文化を芸術を次世代に継承して行かなければならない。日本人の責任として。
啄木の人生は哀しくも厳しく、彼れの芸術はいまも尚輝いている。
誇るべき希代なる文化忘れられ
無念の涙ながるる夕べ 紫 敷布
だれが忘れようとも、啄木はわたしの胸の中にいつも生きている。
石川啄木、石川一、啄木をこよなく敬愛するわたしは、生まれた息子に「一」はじめと命名したのだった。
這えば立て、立てば歩めの親心で月日は流れ、我が息子はじめ君は、ロックミュージシャンになってしまった。!
落ち武者がパーマをあてたようなヘアースタイルに髭をたくわえ、なんかよくわからないファッションで
「ロックだって芸術だよ」とはじめ君はいうけれどはたして……
いやいや、啄木は、
「ゲイジュツは爆発だ!」
とは言わないまでも、大いに理解できるのかもしれない。
冷夏の夏といわれる釧路の夏も、今年は暑い暑い夏らしい夏であった。
暑いといってもせいぜい三十度を1、2度越える程度の暑さで、それも数日のことである。
猛暑に苦しむ地域からみれば、涼しい贅沢な夏を過ごしている訳だ。暑いなどというには申し訳ない気温なのである。9月になってもこの時期、釧路ではあり得ないような28、9度の気温が続いていて、ススキの穂は衣替えを忘れた様子であったが、中秋の名月を目前にあわてて秋の装いを整え始めたようである。
スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋、そして、何故か郷愁をそそる侘びさびの芸術の秋、ふと和歌など一首試みたくなる心境である。
十五夜の月に魅せられ仰ぎ見て
われは一夜の歌人となれり 紫 敷布
すっかり芸術的趣の今日この頃である。
釧路はあの天才歌人、石川啄木に造詣の深い土地なのである。
さいはての駅に下りたち雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき (一握の砂・忘れがたき人々より)
新聞記者でもあった薄幸の天才歌人石川啄木は、明治四十一年一月二十一日の夜『釧路新聞社』現北海道新聞社に赴任のため釧路駅に着いたのだった。
そして、洋風窓のある関下宿屋の一室を、釧路での生活の拠点としたのは、厳寒の季節であった。
北国の寒さは想像以上であり、ただひとり無縁の地の住人となることの侘しさがあったのかもしれない。 『二階の八畳間、よいへやではあるが、火鉢ひとつを抱いての寒さはなんともいへぬ』と日記に記している。
こほりたるインクの壜を火に翳し
涙なかれぬともしびの下
と一首詠み、七十六日間の釧路での生活が始まったのであった。
在釧時には記者として、百本の様々な記事を残し、短歌六十首、釧路の日々を素材にした小説『菊池君』『病院の窓』などがある。
釧路での有意義な対人関係はもとより、野口雨情、金田一京助、若山牧水等との親交の厚かった、天才歌人石川啄木の釧路での足跡、そしてこの希代な文化遺産を、現地に居ながらあまり知られていない現実、多くが見逃している現状はなんとも残念であり、もったいないことである。
この地釧路には二十余基の啄木の歌碑がある。
啄木が残したこの貴重な文化遺産を、もっと広く深く考えなくてはならないと想う初秋の宵である。
正岡子規、高浜虚子等の俳人を輩出した愛媛県松山には、ごく当たり前のように至る所に俳句ポストがあると聞く。
釧路も見習わなくてはならない。地域を愛し地域の文化をだいじにし、そして日本の文化を芸術を次世代に継承して行かなければならない。日本人の責任として。
啄木の人生は哀しくも厳しく、彼れの芸術はいまも尚輝いている。
誇るべき希代なる文化忘れられ
無念の涙ながるる夕べ 紫 敷布
だれが忘れようとも、啄木はわたしの胸の中にいつも生きている。
石川啄木、石川一、啄木をこよなく敬愛するわたしは、生まれた息子に「一」はじめと命名したのだった。
這えば立て、立てば歩めの親心で月日は流れ、我が息子はじめ君は、ロックミュージシャンになってしまった。!
落ち武者がパーマをあてたようなヘアースタイルに髭をたくわえ、なんかよくわからないファッションで
「ロックだって芸術だよ」とはじめ君はいうけれどはたして……
いやいや、啄木は、
「ゲイジュツは爆発だ!」
とは言わないまでも、大いに理解できるのかもしれない。