2018宇治24(終) 西教寺 | 楢丁(YOUTEI) 旅の話

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趣味で書きためた旅日記が、膨大な量になりました。2020秋に脳出血、2023には食道癌を発症と、様々なことが起こりますが、克服してまた旅に出たいという気持ちは変わりません。
お付き合い頂けたらありがたいです。どうぞよろしく。

2018春の旅 宇治 醍醐 黄檗 坂本(3/26~30)その24

 

3/30(日)

 さて、日吉大社の門前に立つ道標には「西教寺」の名が見える。1.1キロとあるから、歩いたところで大して時間はかからないはず。そんなわけでぶらぶらと歩いて行くことにした。


 琵琶湖を右手に見ながら高台の通りを北に向かう。さほど交通量の多い道ではないが、きれいな舗装路で、こういう道はさして面白いものでもない。


    15分ほど歩くと、左手に西教寺らしき伽藍が現れた。道を隔てた右側には安養院聖天堂だ。まずはこちらから覗いていくことにした。位置関係からするとかつての西教寺の塔頭、という位置づけかも知れない。

 

安養院の地蔵堂


 本堂から左手に、池を隔てて建つのは地蔵堂だったろうか。境内は広いとはいえないが、高低差のあるお堂の配置が面白い。


 歓喜天が祀られているという聖天堂は、側面から見る限り、二つのお堂が合体したかに見える、ちょっと変わった建物。前方部分はノーマルだが、後ろの漆喰壁の本殿は屋根が変形の六角形、何という様式なのか分からないだけに、そのあたりの解説が欲しかった。

 

こちらが聖天堂


 さて、西教寺である。山門をくぐると見事な桜の並木、緩い坂の参道だが、これを延々と歩いて行く。

 

参道の桜は満開

 

 寺域は広大、建築物も壮大で伸びやかな印象がある。「天台真盛宗」という、聞いたことのない宗派の大本山、高野山に対する根来寺のように、比叡山とどこかで折り合いが悪くなった坊主が建てたもの、というのが最初の見立てだったが、必ずしもそうではないようだ。

 

 創建は聖徳太子とあるが、その後、幾多の変遷を経て比叡山の焼き討ちに逢い、伽藍は消失、滋賀を治めることになった明智光秀の庇護の元、再建を果たしたという。天台真盛宗は天台宗に念仏を加えた宗派らしく、開祖真盛の名を加えたもの、などと後に調べたことを書き連ねてみた。


 さて、回ってみたところ、寺域は大きく3つに別れている。

 

彫刻は細部に至るまで素晴らしい


 宗祖大師殿の門はどっしりとした檜皮葺の優美な姿、扉に施された格子模様の透かし彫りが素晴らしい。扉には雀が3羽、口を寄せている紋がデザインされているが、これは何を意味しているのだろうか。この門から続く塀は瓦葺きだが、瓦屋根の隅に座っているのはサルだ。日吉大社との関連を覗わせるが、鬼瓦が睨みを効かせるのではなく、何となくかわいらしい小猿があしらわれているところに好感を持つ。

 

屋根の隅にいる猿はかわいらしい姿

 

 ここから出て本堂に向かうと、手前にある苔むした石垣と、その上に建つ、まるでお城の櫓に見えるお堂が桜の枝越しに見える。これがまことにいい景色だ。桜の季節もいいが、きっと紅葉の中で見るこの寺も素晴らしいだろうと想像できる。

 

こりゃ、絵になる!
 

 本堂は気宇壮大な建築だが、破風の瓦に施された繊細な彫刻がこれまた素晴らしい。よくは分からないが、「桃山」の建築だなあ、と感じさせる造形だ。その裏手にある客殿は檜皮葺の屋根が実に優美な線を描く。

 

破風が実にカッコイイ

 

 ここから石段を上がると真盛上人廟となる。ここにもあちこちにサルの彫刻があしらわれているのをみると、さっきの宗祖大師殿の門と合わせ、ますます日吉神社との関連が想像される。

 

廟からの石段を下がる

 

明智光秀一族の墓


 一通り巡って降りてくると、明智光秀一族の墓があった。通常の墓があるような場所とは違い、境内の石垣づたいの塀際に石塔や墓石が並べられている。どんな経緯があるのかは分からないが、きっと後から場所を移されてこのような形になったのだろう、と想像された。


 帰りは来た道より一段上がったところを通る田舎道を行く。途中に石塔や墓石のようなものが数百個ほども集められた場所があった。近隣に放置されていたものを集めて供養している、というような説明書きがあったように思う。してみると、かつてここはどんなところだったのだろうか、という疑問が湧いてくる。見渡せば今はただの田畑ばかりだが、もしかすると比叡山の麓ということで、関連の寺院が建ち並ぶ光景が見られたのかも知れない。時を経て、伽藍はすべて焼けてなくなり、ここに集められた石塔だけが残った、という想像もまんざらではないかな、と思いを馳せてみた。

 

まず、無数といっていい石塔


 この道をぶらぶら行くと、素直に日吉神社の境内に入っていった。


 さて、ナビで長浜のテン場を検索してみると、なんとここから70キロ以上あるではないか。到着予想時刻は2時間以上も先である。同じ滋賀県にいるとはいえ、長浜は琵琶湖の対岸、それもかなり北上したところに位置する。これなら、宇治のテン場の方が遙かに近い。


 そんなわけで、宇治へ戻ろうと走り出すが、山科あたりでかなり強烈な渋滞にはまる。考えが二転三転し、これなら、もう今日のうちに帰ってもいいのじゃないかと思い始める。今晩泊まったところで、明日はほぼ移動日になってしまうだけだ。これから帰れば夜中には着くし、それで一日余裕が出来る。丁度往路で頂いた無料券もあるから、途中高速を降り、「和の湯」に入っていくのもいいな、と考えが変わり、踵を返して帰途につくことにした。


    既に5時を回っていただろう。明確な記憶がないが、ここからなら、京都東インターから名神高速に乗ったと思われる。


 幸い「和の湯」は営業時間が11時までだったから、あまり急ぐ必要もなかったが、おそらくは9時前に着いたのだろう。これを書くに当たってHPで確認したら、すでに入浴料が¥1000に改定されていたから、その時配られた無料券は、¥100値上げするという告知とともに、批判を和らげる意味があったのではないかと想像された。


 到着はおそらく日付が変わった頃だったと思われる。本当に盛りだくさんだった春の旅だが、最後は意外にあっけなく、これにて終わりを告げた。

 

 もう、一生分の桜を見たなどと、どこかで書いたが、まさに実感としてはそんな感じ。テントの旅は、朝が早い分、旅館に泊まるよりも一日が長く、おそらくは廻って歩くことのできる目的地は、倍近くなるだろう。

 

 旅に出てのんびり、なーんにもしない、という状態はあこがれとしてあるが、我々の場合、まだまだそんな境地には、とても至りそうにない。

 


今回の収穫物を並べてみた

 

 

2018春の旅 宇治 醍醐 黄檗 坂本(3/26~30)おわり