2017夏 長野・愛知・静岡33 秋葉神社 | 楢丁(YOUTEI) 旅の話

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趣味で書きためた旅日記が、膨大な量になりました。2020秋に脳出血、2023には食道癌を発症と、様々なことが起こりますが、克服してまた旅に出たいという気持ちは変わりません。
お付き合い頂けたらありがたいです。どうぞよろしく。

2017夏 長野・愛知・静岡33
秋葉神社

8/13(日)
 さて、いよいよ秋葉神社へ。あちこちでその名を聞くこの神社に、なぜ今まで足が向かなかったのかといえば、火伏の神でありながら火災で本殿を焼失している、と聞いていたからだ。

 

 

 かつて住んでいた家の近くの、入間市豊岡にある愛宕神社も、同様に火伏せの神様を謳いながら、1979年の正月1日に、火災で社務所を失っている。19歳で浪人していた年越し、正月を祝って夜更かしするなどという事が出来なかった、その明け方だっただけに、いつの年の出来事かはすぐに思い浮かべられる。けたたましい消防車のサイレンと走る人の気配に、雨戸を開け、県道を隔てたすぐ向こう側に上がった火の手を眺めた時の記憶は今に鮮明だ。お札などのお焚きあげの火が原因と聞いたが、かろうじて本殿の焼失は免れたものの、そうなってみると、御利益などというものに疑問符がチラつくのは致し方あるまい。

 もっとも我々は信仰心がまるでないせいで、御利益目当てで神社仏閣を訪れる事はまずない。足が向かなかった本当の理由は、新しく再建された本殿の建築という響きに、魅力がまるで感じられなかったためだ。

 二俣川に暫く並行して行くが、上流には岩場も出て来るなど、渓相は変化に富んでいい感じ。少し行くと、秋葉神社の看板があり、神社に上社下社があるということを知る。今回目指すのは上社だが、いずれは下社も訪ねることになるのだろう。

 天竜川の中流にあるダムは茶色く濁った水が溢れんばかり、このところ散々苦しめられてきた局地的な大雨のせいだ。

 またしても、途中から雨が降り始め、秋葉神社の鎮座まします山を上り始める頃になると次第に雨脚が強くなり、しまいには土砂降りと形容してもいいような降り方になる。こりゃまずいんじゃないかな、と不安をかき立てられるほどだが、しかし先行車がいるので何となく付いていけばいいや、と気持ちは楽。

 駐車場に着く頃には雨は小やみになってほっとするが、周囲は一面真っ白に霧がかかり、下界の景色は一切見えない。大きな看板の地図で確認すると、ここから本殿までは参道をかなり歩く必要があるから、傘をさして行くことにした。この雨もさほど前から降り続いているわけではないようで、運悪く傘を持たずに行き、濡れ鼠になって帰ってくる人たちにも行きあった。さっきの先行していた車から降りてきた夫婦は、何度もここには来ているが、こんなに周囲が真っ白なのは初めてのことだ、と言っていた。


天候は大変よろしくない

 時刻はそろそろ4時という頃合いだったが、既に手水舎では、若い人たちが束子を片手に掃除をしているところ、もう店じまいかよ、という感じ。こんな天気じゃ、もう参拝客も来なかろうという事なのか。我々はいい面の皮、案の定、本殿の扉もすでに閉まっていた。


本殿の扉はすでに閉じられている

 建て替えられた本殿は、確かに時間の経過がもたらす風格に乏しい気もするが、木彫の龍や虎もかなりの出来映え、その名に恥じない堂々たるものと見た。本来ならば本殿付近からの景色も素晴らしいというが、今日は真っ白で何も見えず。由緒書には火災で本殿焼失という文言はどこにもない。



社殿の彫り物は素晴らしい。新しいものらしく虎は写実調

 この天候といい、この時刻ですでに扉を閉じていることといい、散々悪態をついてきた我々に対する報いなのか、とも思ったが、神たるもの、そんな狭量な事ではいけません。

 何でもそうだが、ものは受け取りようでどうとでも解釈できる。帰り道、石段を下っていくと真っ白な霧の中から参道の両側に浮かび上がる灯籠の明かり(どうせ電気だが)なんて、素敵じゃないか。そして参道の脇に広がる杉の木立など、まるで長谷川等伯の松林図屏風を見るようだ。こんな光景には滅多に出会えない。


霧の中に浮かぶ灯籠の火がが美しい


まるで等伯の松林図屏風を見るようだ

 何年か前に行った伊豆天城の八丁池に至る登山道を思い出した。あの時も霧が深く、周囲に広がるブナとリョウブの森の幻想的な風景といったら、ちょっとやそっとで見られるものではなかった。 



2017夏 長野・愛知・静岡34 和の湯(なごみのゆ)につづく