2016 紀伊半島の旅64 根来寺  | 楢丁(YOUTEI) 旅の話

楢丁(YOUTEI) 旅の話

趣味で書きためた旅日記が、膨大な量になりました。2020秋に脳出血、2023には食道癌を発症と、様々なことが起こりますが、克服してまた旅に出たいという気持ちは変わりません。
お付き合い頂けたらありがたいです。どうぞよろしく。

2016 紀伊半島の旅64 

根来寺

 

8/18(木)②
 まずは、高速に乗って北上、和歌山ICで降り、根来寺へ向かう。この寺はかつて来たときに、塀の外から大塔を眺めただけで終わっている。


 ICから降りて見ると、高速が通ったせいだろうか、整備が進み、道は太くなったようだが、その分、周辺の樹木が伐採されてしまっていて、周囲は裸に剥かれたような印象を受ける。


 東へ走るとまもなく根来寺の大きな看板が現れる。広い駐車場の、木立がある端っこの日陰に車を停め、傍らの参道を歩き始めると、すぐに受付の建物があった。あわせて参拝料1000円を払う。

 

                    根来寺にやってきた

 

 以前は、大塔の近くまでは参拝料を払わずに入れた覚えがあるから、その時とは変わったのだろう。思っていたよりずっと寺域は広い。

 

                11年前の写真。ここまでは無料で入れた                  

 

 境内では「ポケモンGO」を禁止する旨の貼り紙があった。これが始まって以来、たばこの吸い殻のポイ捨てが増えた、という。さもありなん、と思うが、「駆け込み寺」という言葉があるごとく、寺は古来、追われる立場のものにとっての避難所、即ち境内のポケモンは仏様に保護されているのだ、という説明には感心した。

 

                  ポケモンGO禁止の貼り紙


 塀に囲まれた核心部分に大伝法堂と大塔がある。ここは高野山と対立した興教大師 覚鑁(かくばん)が、弟子を引き連れて山を下り、新たに建立した新義真言宗の寺という。もとの真言宗とどこが違うのかよくは知らぬが、覚鑁は空海以来の天才らしい。

 

               大塔。右手前にちらと見えるのが大伝法堂の軒                


 覚鑁が活躍したのは平安時代も後期、空海入滅後300年の時を経て、ということをどこかで読んだ覚えがある。これも昔読んだ、桐山靖雄の「密教」という本では、虚空蔵求聞持法を修法したのは、ということで空海-覚鑁-桐山という系譜を示していた。ずいぶん大きく出たものだな、と思ったものだ。

 

 後に読んだ 朝日評伝選「空海」の著者、上山春平もこれを修めたという。この本の主だった中身は、

 

①正史に見える空海の伝記、即ち「崩伝」と、「御遺告」に記されたもの、双方を比較しての出生と出家得度の時期の確定。

 

②高野山に伝わる、空海自身の筆になるといわれる、「御遺告」が偽書であることの証明。

 

③空海と最澄の交友と確執、そして断絶。

 

というものだが、その前段で、著者自身が2度の自殺未遂の挙げ句に実践したという、その修法の実感を語っていた。満行の暁には、明けの明星が口の中に飛び込むような体験ののち、記憶力が飛躍的に増進する、という効果が現れるらしいが、凡人には分からないことであるにせよ、ある種、憧憬のようなものはずっとある。

 

 空海の事績については、そのように超人的な能力を身につけでもしない限り不可能、という確信は今でもあり、自分がもっと若ければ、と今になって思うこともあるが、もちろんたやすく達成できるものであるはずもない。


 大伝法堂、大塔ともに規模の大きい立派なもの、そんなの当たり前だが、うまく言い当てる言葉が他に見つからない。大伝法堂には三体の大きな仏像が並んでいる。このような鎮座のしかたは他で見た記憶がなく、独自のものと思う。光背には、おそらく光りを表現したものだろうが、金色の棒が放射状に配置されている。像は重要文化財という。

 

        大伝法堂に鎮座する大日如来。内部の撮影は禁止だが、これは外から撮った


 大塔は国宝、内陣は撮影禁止。金色に輝く内部の様子を何とか写真に収めようと、外から撮影を試みたが、画像を見る限り、どうも上手くいってはいない。外観は国宝にふさわしい堂々たる姿。重量感が漲り、「凍れる音楽」と表現されるような、薬師寺三重の塔に見られる軽やかさとは対極をなす。おそらくは密教世界というものを、建物でも表現しようと試みているに違いなく、この塔や大伝法堂にも、その世界観が塗り込められているはず。


 もとはどんな色彩が施されていたのかは分からないが、高野山の丹塗りが施された根本大塔とはまるで違う印象、色の相違が大きいことは間違いないが、こちらの方が好ましい感じを受ける。


 あとから写真を見ると、大師堂にも寄っているが、何となく印象に乏しい。やはり、大塔、大伝法堂の印象が強いせいだと思う。

 

                       奥の院


 ここから境内を西側にまわり、奥に進むと文字通り奥の院、ここが興教大師 覚鑁の廟所だ。石の橋を渡り、まっすぐ続く参道の奥に廟があるが、幾分かは高野山の奥の院を意識したものだろう。参道は、しかし高野山のそれのように長く続いているわけではない。廟は彩色が美しく、その後にも大切にされてきたことがわかる。

 

               覚鑁の廟所。美しく彩色されているのが印象的だ


 深閑とした、気持ちの落ち着くところ、とでも表現しよう。


 安土桃山の頃、秀吉に攻められて、大塔、大師堂以外は焼かれたということだから、その他の堂や廟がいつの建築なのかは、資料にでも当たらないと分からないが、ここも例に漏れず、かつてはたくさんの坊が軒を並べていた寺なのだろう。現在ある伽藍から、往時を偲ぶというのはなかなかに難しい作業である。

 

 いっそ福井・勝山の「平泉寺白山神社」のように全くの廃墟であれば、こちらの意識が想像に向かって走り出すということはあるのだけれど。あそこも、もしかしたら、訪れるには今が一番いい頃合いかも知れない。発掘が進んで、手がかりが出来ると、伽藍の復元なんて話も持ち上がってくるかも知れないからだ。

 

                  こちらが境内西側の区域


 受付で、お茶が頂けると説明されたのは果たしてどこだろう?境内の西側には庫裏のような建物があり、こちらにはいくつかの、さほど大きくないお堂や、庭園、池などが配置されている。座敷に上がってみると、お茶のサーバーがあり、一休みすることが出来る。根来寺の掲載された雑誌類や、真義真言宗関係の本などもあったが、パラパラめくってみた程度。

 

                  座敷からの眺め?だったかな


 根来寺から出ると、門前には、岩出市の歴史資料館があった。立派な会館だが入場無料、そうなると入ってみようということになる。遺跡やら何かの展示もあったと思うが、もう、思い出せるものは少ない。根来塗りのことは詳しく紹介されていたのだと思う。ここに関するメモは残念ながら残っていなかった。


 

2016 紀伊半島の旅65につづく