2020 再びの会津13慧日寺 | 楢丁(YOUTEI) 旅の話

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趣味で書きためた旅日記が、膨大な量になりました。2020秋に脳出血、2023には食道癌を発症と、様々なことが起こりますが、克服してまた旅に出たいという気持ちは変わりません。
お付き合い頂けたらありがたいです。どうぞよろしく。

2020 再びの会津 その13

 

8/13(木)④

 当初、磐梯山のトレッキングをもくろんでいたから、どこかに資料はないかと、「道の駅ばんだい」へ。道はどんどん高度を上げ、瞬くうちに街は眼下に。すると森林公園の看板が現れた。よし、これはテン場に格好と思いつつ路地へ入るが、建設中の工場があるばかりで、公園らしきものは影も形もない。さては、公園を売りに出したか、残念。


 「道の駅ばんだい」では、テレビで徳一についての解説アニメが流されていた。最澄や空海と論争した南都仏教の相手が徳一、という。なるほどそうだったのか。おぼろげに、てっきり最澄らが論争の相手にしたのは、奈良にある寺院の学僧、とばかり思っていた。

 

 徳一が開いて根拠地としたのが「慧日寺」、その遺跡がここから歩いて十分ほどのところという。

 

現在の恵日寺前にて


 歩きはじめると、暑いが、風があるのでさほどのことはない。左右に大きな農家の並ぶ緩い坂を登っていくと、途中に現在の恵日寺があるが、その少し上に慧日寺跡が姿を現した。ここには復元された朱塗りの中門と金堂があり、少し下がったところにある資料館と併せて¥500、すでに残り時間が少ないが、両方回ることにした。

 

復元された中門

 

 

同じく金堂


 きっとこの辺り一帯に伽藍がいくつも建っていたのであろう。会津の周辺に残る徳一の足跡を合わせて考えれば、根拠地となっていた慧日寺は、相当の規模を持つ寺院だったことは間違いなく、復元、公開しているのはそのうちのごく一部と思われる。

 

かつての境内の規模はすでに想像するしかない

 

  堂内にはやはり復元されたという丈六の薬師如来座像が、金色に輝いていた。どんな資料を元に復元されたのかは知らないが、この薬師はなかなかのもの。堂々としたその姿は平安初期の作を思わせる。東京芸術大学が制作に協力したという。

 

復元された薬師如来は堂々たる姿


 傍らに建つ神社裏の徳一廟は、中に朽ちかけて補助の構造物に支えられている石塔が収められていた。

 

徳一廟の石塔は風化・損傷が激しい


 すでに閉館の時刻が迫り、急いで資料館に回る。企画展示は幽霊の絵画、同様のものを、富山の水墨美術館でやっていたのを思い出す。しかし、ここのは玉石混淆といった感じで、下手なものは、まあどうでもいいな、という程度のものもある。「金性寺」という寺にこの手の絵が奉納されているというが、実にそれが800点にも及ぶという。要らないから、あるいは薄気味悪いからといって、ただ打ちやったのでは、何か祟りでもあるのでは、と考える人も多いのだろう、そんな心理には共感できる。

 

いかにも夏の企画


 はじめから分かってはいたが、慧日寺の資料をじっくり見るのには、時間が足りなかった。数々の戦乱で荒廃した挙げ句、明治の廃仏毀釈で決定的なダメージを負ったこの寺だが、残された資料や、山岳信仰との関わり等の展示があったように思う。

 

移築されたお堂


 野外にはどこだかから移築したというお堂が丘の上に立っていた。もう一つ、名水「龍ヶ沢湧水」が引かれた水場があり、ここへは水汲みに来る人が後を絶たない。我々はペットボトルに汲んだだけだったが、駐車場が遠いので、皆さん、様々に工夫しているようだった。

 

名水「龍ヶ沢湧水」


 道の駅に戻って、車に乗り込み、テン場はないだろうかと、近くのスキー場を探ってみた。するとここは、案外にも管理がしっかりしていて、リフト乗り場はもちろん、いくつもある駐車場は全てガードされ、立ち入る隙間はない。景色もいいところがなく、今晩も柳津に戻ろう、ということにした。


 伊佐須美神社近くの「あやめの湯」へ行ったが、窓口で章湖がおじさんからなにやら話しかけられ、頷いて割引してもらっていた。言っていることがはっきり分からなかった、とは章湖の弁だが、割引はどう考えても65歳以上、それを示した紙も貼ってある。そう見られたとしたら、きっぱり「違う」、と言うべきだったろうに。


 去年ここに箱売りで置いてあった桃、「いけだ」は今回姿がなく、残念。あれは極めて糖度の高くなる“幻の品種”だそうだ。栽培が容易ではなく、広く普及してはいないということだったと思う。


 帰りがけ、リオンドールで買い物。このチェーンは周辺に何店舗もあるが、それぞれの店でかなり品揃えは違う。俺は今晩、すき焼きにしよう、と言った。朝採ったチタケは一本だけだったが、これを活用しようと思ったのだ。章湖はこれが嫌だったらしく、あれこれと難癖をつけた。一体何が不満で、どうしたいのかがちっとも分からなかった。結局牛肉の他に鶏も買ってみたりと、妙なことになった。単に虫の居所が悪かった、ということだろう。


 テン場には、珍しく奥の方のキャンプサイトに人がいるようだった。


 雨に遭うこともなく、宴会は外で出来た。結局、半端なすき焼きの挙げ句、鶏肉を入れるなど妙な料理になったが、この味付けで食えないものにはなりようがない。

 

半端な料理になったが、旨かった


 かなり酔いが回ってきた頃だったと思う。章湖が道を隔てた向こうの山裾に用を足しに向かい、暗闇に消えたが、そこで悲鳴をあげた。転んだことは様子から分かった。大したことはないと戻ってきたところが、肘を大きくすりむいているではないか。側溝に気が付かず、足を突っ込んでしまい転倒したというが、応急処置をしないと、膿んだりしたら大変だ。よく洗って一番大きな傷に絆創膏を貼ったが、他に怪我がなかったのは幸いだった。ヘッドランプをつける習慣を身につけていないせいで起こした事故、たびたびそのことを指摘してはいたが、今度こそ身にしみたのではないか。


痛々しいが、大事にならなくてよかった

 

 

※慧日寺
   慧日寺は平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一によって開かれた。徳一はもともとは南都(奈良)の学僧で、布教活動のため会津へ下って勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実諍論」と呼ばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送ったりするなどをしていた。徳一は842年(承和9年)に死去し、今与(金耀)が跡を継いだ。この頃の慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたと言われる。
   平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、1172年(承安2年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。その影響で、源平合戦が始まると、平家方に付いた城助職が木曾義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職への援軍として駆けつけている。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退した。
    その後、中世に入ると領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。その金堂も江戸時代初期の1626年(寛永3年)に焼失し、その後は再建されたものの、かつての大伽藍にはほど遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、「恵日寺」という寺号で復興された。なお、現在は真言宗に属している。

 

 

 

2020 再びの会津 その14につづく