2012山陰35 鳳源寺/奥田元宋・小由女美術館/上下 | 楢丁(YOUTEI) 旅の話

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趣味で書きためた旅日記が、膨大な量になりました。2020秋に脳出血、2023には食道癌を発症と、様々なことが起こりますが、克服してまた旅に出たいという気持ちは変わりません。
お付き合い頂けたらありがたいです。どうぞよろしく。

 

8/18(土)
 テン場は静かだった。夜になり、かなり気温が下がったようで、朝になって霧が出たが、テントはさほど濡れずに済んだ。

 

道路脇だが条件がよかった


 昨日見つけておいたコインランドリーは安かったが、あいにくコインが足りず。両替機もないので、諦めざるを得なかった。三次は川が4本合流しているため、道が河道の影響を受け、ややこしい。加えてここは城下町、攻められたとき、簡単に城に到達しないよう、道が複雑に作られている、という例は多いから、それもあるのかも知れない。

 

鳳源寺


 新たに見つけたもう一軒のコインランドリーは、「鳳源寺」と、道を隔てた「尾関山公園」の近く、洗濯物を放り込んでから、鳳源寺を訪ねた。この寺は三次浅野家の菩提寺、ここから赤穂の浅野家に嫁いだ、浅野内匠頭の奥方「阿久利姫」の墓がある。大石内蔵助手植えと伝わる枝垂れ桜は、さすがに老木の趣。

 

阿久利姫の剃髪した髪の供養塔


 やはり、忠臣蔵の人気は格別のようで、思わぬところで四十七士全員の木像を収めたお堂に出逢うことになった。この事件は巷間言われるように、当時の世相に対する庶民の不満や、政権批判の気持ちなどが絡み合い、歌舞伎の演目になり、後には暮れの恒例行事のように、テレビドラマで何度も採り上げられるという経緯があって、我々が思い描けるような筋立てが出来上がってきたのだろう。しかし、初期の勧善懲悪に近いストーリーから、次第に焦点を変え、個々の挫折や葛藤といった、深い心理描写に到達するものも現れるなど、その描かれ方は徐々に変化を遂げている。

 

四十七士の木像が納められたお堂


 きっと誰にでも印象に残る忠臣蔵のドラマがあるはずだ。今、頭に浮かぶのは、大石内蔵助を江守徹が演じた、あれは「元禄太平記」だったろうか。小沢栄太郎演じる吉良上野介が、実に憎々しげなじじいだったのも印象に深い。浅野内匠頭は誰か歌舞伎役者だったと思う。この役は名君のような描かれ方が多いが、実際のところはどうだったのだろうという疑問は残る。阿久利姫役は松坂慶子だった。ところがこの物語の主人公は石坂浩二演じる柳沢吉保、列挙したような配役の妙ばかりではなく、権力を掌中にした者と、それに異議を申し立てる、大石以下赤穂浪士との対決の構図が新鮮だった。当時、俺は高校生だったから、もうずいぶん昔の話だ。

 

 

 いずれにしろ、「忠臣蔵」の物語は周辺のエピソードを取り込みながら、今後も成長を続けていくことだろう。


 山の中腹に展開する尾関山公園は、枯山水の庭園が中々のもの。桜や楓が多いので花見や紅葉の季節には賑わいを見せるものと思われる。阿久利姫は剃髪前の姿で、ブロンズ像となって立っていた。

 

尾関山公園の枯山水庭園


 

8/18(土)②

 昨日テン場探しで立ち寄った、「県立公園」は9時オープンのはずだったが、30分ほど前にはすでに駐車場が開いていて、もう何台も車が停めてある。カルチャーセンターのある、第5駐車場に入り、近くのベンチで朝食と日記書き。昨日買った梨はまずまず、ワッフルとブルーベリーはベストマッチ、いくらでもいける、とはメモの記述だ。


 目の前の地面には、何か地形のモデルのように白い図があるな、なんだろうと思っていたら、これがだんだん膨らみはじめた。あれ、と思っている間に小山のようになり、こどもたちがやってきて、飛び跳ねたり滑ったりして遊びはじめた。その様子を何枚か写真に収めたが、その中に植田正治を彷彿とさせる(とは言いすぎか)、子供らの姿を捉えたものがある。トリミングでもすれば、ちょっと面白い作品として見られるものになるかも知れない。

 

                ぺちゃんこだった白い地面が膨らんで、こんなものになった


 洗濯物を回収して、「奥田元宋・小由女美術館」へ。「三次ワイナリー」とともに、小高い丘の上に立つこの美術館は、曲線を活かした建築が秀逸。満月の夜には催しがあるというが、きっと月とともにある美術館の姿は、さらに美しく映えるのだろう。


 企画展は「ハンス・フィッシャー展」。この人のことはほとんど知らなかったが、スイスの絵本作家という。ちょっと見には、殴り書きに近いくらいの線描に、荒っぽい色づけと表現してもよさそうな絵のくせに、実にうまいと思わせる造形力の確かさがある。

 

                    ハンス・フィッシャーの絵は魅力がある


 代表作が「ブレーメンの音楽隊」。へえ、こんなストーリーだったのか、という驚きがあった。他には「ねこのピッチ」「いたずらもの」など。絵本原画の他に、大きな壁画も展示されていた。本国では、絵本ばかりでなく、多方面で活躍する芸術家として知られているというが、なるほど絵のセンスは抜群。独自の世界が広げられ、絵本のイメージから離れることはないにせよ、思ったより見応えのある展観だった。


 併設のレストランは「洋食工房」、ネーミングはいただけない感じだが、美術館のイメージそのままの洒落た店内、割合オシャレをしたおばさん方で、もう席は8割方埋まっていた。¥2000のランチコースを注文。以下メモをそのまま記載する。

 

 「前菜 海鮮サラダ(サバ燻製・スモークサーモン・野菜・正体不明の和え物・他)+スープ(ミネストローネ)+メイン(肉:ビーフシチューor魚:鯛とエビの何とか)+パンorごはん+デザート(フルーツとナッツの載ったケーキ+抹茶アイス)+飲み物(章子:山ブドウジュース、將人:コーヒー)、これで¥2000!?という内容。こういうのが入間市の博物館にもあればなあ、というのはたぶん無理、隣接するワイナリーと併せてかなりの観光客が訪れるところだからこそ実現できるとみた」。 

 

              この内容のコースで¥2000!


 食後に常設展示のスペースへ。奥田元宋の紅葉の描写は、確かに大したものといえようが、もう一つ見た後の充実感に乏しい。日展で活躍した、というが、そんな保守本流の大規模展作家の限界、といったところを示しているのかも知れない。


 それよりも、小由女の人形にはどうも感心しない。肌合いや衣装その他の色彩の美しさは認めるにやぶさかでないが、人形の表情に魅力がない。たとえば、写実彫刻や仏像を研究したあげくの葛藤、のようなものも一切感じられず、物足りなさが残るのだ。ぐっと引き込まれるような深みに乏しい、という言い方も出来る。これらは優れた仏像彫刻などに例外なく備わっているものだ。これを個性、といってしまえばそれまでだが、その世界ではどのように評価されているのだろう。おまけに、この人には「芸術院会員」という肩書きがつく。そうなると、これで?と疑問符がいくつかチラつくのもやむを得まい。もちろん個人としての勝手な意見だけれど、まあ、こういった肩書きなどというものは、多分に政治力が必要、みたいなところもあるやに聞くし、世間なんて、そんなものかも知れない。


 あまり期待せずにワイナリーへ。章子が試飲役だが、どうもダメらしい。何も分からない人が好む甘口のものを主力にせざるを得ない、ということは一応理解する。一方において理想とするものを追求する姿勢は是非欲しい。そしてそれを普及価格帯にも、ということを忘れずにいてくれ、とは我々の願いである。

 

                  三次ワイナリー


 

8/18(土)③「上下」の街歩き

 世羅方面へ進路をとる。途中、「上下」という街が面白そうだから寄っていこう、と走っていると、不思議なことに、「カーター通り」なる道が存在するではないか。かつてのアメリカ大統領「ジミー・カーター」氏の肖像がイラストになって、通りのあちこちに掲げられ、その存在を示している。かつて来日してここに立ち寄ったということらしいが、それを記念して、「ジミー・カーター」の名を冠した公共施設が作られている、ということだった。通りそのものは、若干古い建物が残っている、という程度で、さして見るべきものはない。地図上では「甲奴」という駅の周辺だ。 

 

              カーター通り。どうだろうな~


 「上下」は政治的、経済的に重要な土地、ということで江戸時代は天領となっていた。山陰・山陽に跨がる交通の要衝、加えて石見銀山から採掘された銀の集積地となれば、幕府が放置しておくはずがない。


 とりあえず車を停め、街を歩いてみる。この町が日本海と瀬戸内海への分水嶺、北が江の川、南は芦田川と矢印が書かれた看板が設置されている。さほど山がちな土地に思えないために意外な感じを受けたが、中国山地はやはり穏やかなのだろう。関東や中部地方で分水嶺といえば、相当に険しい山脈の尾根筋、という印象を持つものなのだが。

 

                 「分水嶺」の言葉のイメージとは、ちょっと違和感が


 「備後大仏」の看板に従って訪ねてみた。路地を少し上って行くと、普通の家とさして変わらないほどのお寺、ここに金色に光る仏様。小さいとは言わないが、大仏と表現するほどの大きさではない。


 確かに、白壁土蔵造りの家並みが素敵な通りだ。重厚な蔵を利用した骨董屋さんがある。「末廣」の看板とともに、店の構えは造り酒屋を彷彿とさせるが、それもそのはず、昭和48年にそれまでの酒屋を廃業、骨董店に転身したという。現れたご主人に、奥の人形資料館まで案内してもらう。我々のすぐ後から入ってきた家族連れと一緒になってついて行く。

 

                 「末廣」前にて


 この人、かなり饒舌。骨董の知識というものは果てしなく、例えば焼き物なら、高温で焼成できる技術が工夫される以前のものが珍重される、などということもあって、モノとしての良さと骨董的価値は、必ずしも一致しない。いいものだから高い、というのとはまた別の価値判断をも迫られるのだ、と。なるほど。


 かつての麹室にある獅子像は、かなりいいもので、「なんでも鑑定団」からオファーがあったのだが断り続けているそうだ。テレビで紹介された後、窃盗団に狙われるという例が多発しているという。そのために警備を厳重にするとまた物入りだ、というのは、確かにその通りだろう。

 

                  饒舌なご主人


 精米機の残る蔵が現在は人形資料館、似たように見えても三次、上下といった地域ごとに眼の入れ方が違う、などの特色があるらしい。骨董もあふれんばかり、五客揃いの塗り物の椀で、¥3000くらいのものがたくさんあるが、すっかり埃をかぶってしまい、少しも魅力的に見えないのは残念だ。

 

                    人形資料館


 一緒に聞いていた家族はここで帰り、我々だけ座敷に上がって講釈を聞かされる羽目になった。九谷の皿で¥4000だが、かなり値打ちものが2客だけあるというのは、買え、という意味だったろうか。大きな壺の「がいろ目」のことはともかく、掛け軸も200本ほどはある、というのは、ちょっとでも興味を示したが最後、目の前で広げられそうな勢いだ。どこだかの大学の先生が訪ねてきたというエピソードも、いくつか聞かされた。


 さすがは旧家の、元造り酒屋だけあって、蔵に眠っていたお宝が山ほどあったのだろう。ご先祖様の残した財産を、いかに今に活かすかというのはまた、結構に難しい命題なのかも知れなかった。


 戦時中、空襲を避けるために白壁を黒く塗った家もこのあたりにはたくさんあり、そういう家のひな人形は凄いのが多く、季節には公開されるのだそうな。というように、話すことは次から次に湧いて出てくるようで、勉強にもなったが、頃合いを見て、丁重にお礼をしてここを辞した。

 

             「映画実演」の看板が掛かる翁座


 この店を出てすぐのところに、「映画実演」の看板を掲げた大きな白壁の建物、「翁座」という、蔵を利用したかつての劇場らしいが、現役なのかどうかは定かでない。


 この後は車窓から街並みを。言われてみて気がついたが、壁を黒塗りにした家もいくつか目についた。考えてみれば、川越の蔵造りの建物も、黒く塗られたものが多い。もしかすると、似たような事情があるのかも知れない。

 

           黒塗りの旧家。空襲を避けるため、か


 

8/18(土)④山田川ダムのテン場

 風呂を探しに「矢野温泉」へ。もうこのあたりが温泉場だろうというところで、「天然記念物 岩海」の案内表示。何だろうと思い、これに従っていくと、なだらかな地形だが、次第に山に入っていく。しまいにキャンプ場が現れ、岩海はその奥にあった。しかし、見た感じでは、浅い谷筋に苔むした大岩が重なっているだけ。さほど変わった景色には見えないが、何か理由があるのだろう、天然記念物と書かれた標柱と、説明板が立っていた。

 

「岩海」。きっと成立の経緯などに、天然記念物としての理由があるのだろう


 矢野温泉には宿が2軒、一つ目は「泉山荘」、日帰り入浴を願したいと、玄関に入って聞いてみると、「やってません」とにべもない。もう一軒は大衆演劇と合わせ、大々的にやっている宿「あやめ」。障子が閉まっていて見えなかったが、座敷が舞台になっているようだ。時間帯によって料金が違うが、現在¥700で、入浴はほぼ貸し切り状態。


 ここから間近にあるのが「世羅高原」、地図上にその名を確認して、胸が躍った。しかし、行ってみると、どうもそれらしい感じがない。「高原」で思い浮かべるのが「妙高」とか「菅平」のような、いわゆる避暑のリゾート地、ここはそのような場所とは全く違っていた。


 テン場は、観光ポイントや、スキー場があればその駐車場の隅っことか、そんなところでも何とかなるはずなのだが、これが全く見つからない。そうなると、狙い目は公園かダム。近くに「山田川ダム」があった。この場合、山田川づたいに上って行くのがセオリーだが、この川が思いのほかショボい。こんな川にダムが必要なのか、国交省は何考えてんだ、と悪態をつきながら行くと、現れたのは、川に似合わぬ立派なダム。多目的ダム、という名称があるが、実は無目的、じゃないかと疑ってしまうケースは多い。利権の産物以外の何物でもなかろう。


 よくある付属の公園ではなかったが、ダムサイトには何とかテント一張りは出来る砂利のスペースがあった。全てコンクリートでは味気ない、ということだろう、隅っこにツツジの植え込みと、砂利が敷かれた区画が作られてあった。最悪はここでいいか、と街場へ買い物に出る。「三谷屋」というスーパーがあった。


 その後、もう薄暗がりの中だが、古墳や城址、展望台など悪あがきしてあちこち探してみたが、結局収穫なし。仕方なく、山田川ダムへ、となったが、ここが案外によかった。街の喧騒とは遠く離れ、静かな上に涼しい。

 

                山田川のダムサイト脇


 ちょっと気がかりだったのがダムサイトの対岸にある管理棟に明かりがついていたことだ。大体無人の場合が多いと思うが、あそこには誰かいそう。こっちで明かりをつけて何かやっていれば、気がつくだろうと思われた。
 

 

※府中市近郊の「矢野温泉」は、「泉山荘」、「あやめ」二軒とも廃業して、温泉場そのものが消滅。コロナ禍の影響かどうかは定かではない。ともかく、8年という歳月のもたらす変化は相当のものがある。

 

 

2012夏 山陰の旅第2弾 その12につづく