六大将軍伝説
〔本編〕
また伏兵のような罠を匂わせる場所が前方に見えてくれば、あるいはそこで敵が追撃を中断するかもしれない。
確かに智将ではないモスタクバルではあるが、そのような危機を本能的に察知する勘に鋭いであろうことから、絶対に追撃を続けるという保証はなく、モスタクバルが追撃を中断した時点で、モスタクバルを討つ機会は今回の戦いにおいては、永遠に訪れない。
そのためクーロが偽りの逃走ルートに選んだのは、伏兵や罠とは無縁のだだっ広い草原や平原であった。これであればルートが森や細道などで限定されることがないので、全員が全速で逃げることが出来る。
そして全速で逃げられるのであれば、モスタクバル将軍の追撃軍といえども、クーロたちが騎乗しているジュリス王国産のホースの脚に、おいそれと追いつくことは出来ない。
さらにクーロが選んだルートは、ひたすらヘリドニ地方の深部へ向かっている。最速でひたすら自国領の奥に向かうルートであれば、たとえ他のモスタクバル軍がクーロの罠に気付き、モスタクバル将軍の後を追おうにも、絶対にモスタクバル将軍に追いつくことは出来ない。そこまで考えてのクーロの偽りの逃走劇であった。
しかし、それであっても逃げるクーロの背から汗が止まらない。冷や汗が……である。
クーロは以前、ミケルクスド國三将軍の一人、バッサート将軍の追撃を受けたことがある。あの時の逃走は、バッサート将軍が、当時の小者である自分(クーロ)だけを狙って追撃してくるなどという想定外のことが起こったため、まさにヌイによる援軍が間に合わなければ、クーロはバッサート軍に討ち取られていたであろうというギリギリの状況であった。
しかし今回の逃走は同じ三将軍の一人、モスタクバル将軍の追撃ではあるが、今回は策としての逃走であり、あらゆる下準備が功を奏した上での偽りの逃走であった。
それでもクーロは偽りでの逃亡を続けながら、ずっと次の瞬間、自らの命が終わるのではないかという気持ちに襲われ続けていた。
クーロをそういう気持ちにさせているのは、他でもない先頭で追撃してくるモスタクバル将軍が放っている迫力によってであり、それはバッサート将軍に追われている時より十倍は強烈に感じていた。
ミケルクスド國という一國の頂点に君臨する猛将の追撃というものは、ここまで死と恐怖を感じさせるものかと……。
“屈するものか!!”クーロは心の中でそう叫ぶ。
「うぉぉぉぉ!!」しかし声として発したのは、このような言葉にならない叫び声だけであった。
『うぉぉぉぉ!!』クーロのその叫びに、逃げる全員が大声で合わせる。彼らにとっても、迫る死と恐怖に飲み込まれないようにするための叫びであった。
結果論であるが、偽りの逃走だとしてもクーロ本人がその軍に加わっていて正解だったのであった。
もし、クーロではなく偽者が将であったとすれば、偽者と共に逃げる周りの兵たちが、追撃してくるモスタクバル将軍とその軍の恐怖に早々に気持ちが飲み込まれていたであろう。
クーロと共に逃げている兵たちにとって、この言いようのないモスタクバル将軍とその軍の恐怖に気持ちが飲み込まれないでいるのは、ひとえに自らの上官、クーロを守りたいという鋼(はがね)のような強い意思からであった。
そしてそれこそが、逃げるクーロ軍が崩壊せずに逃げていられる唯一の要因となった。
「パインロ先生! ホースの馬脚が思ったより伸びません!」クーロが並走するパインロに伝える。
「モスタクバル将軍の追撃による迫力に、ジュリスのホースといえども正常な状態を保ち続けるのは難しいということでありましょう。逆に言えば、ジュリス王国が作り上げたホースの猛々しい性格と強靭な脚力だからこそ、まだ走っていられるということなのでありましょう。並みのホースであれば、早々に泡を食って棒立ちになっているか、騎乗している我々を振り落として、四散しているやもしれません!」パインロのこの言葉はまさに正鵠(せいこく)を射ていたのであった。
理論の事柄と現実との差異は微々たるものではあっても、時に重大な齟齬を生じさせ、大いなる番狂わせを起こさせることもある。今回のクーロの綿密に練った逃走劇はまさにそう言った類(たぐい)のものであった。
今回、クーロの偽逃走に用意した最大の隠し玉が、ジュリス王国の馬(ホース)であった。
現在、ソルトルムンク聖王国は蜜月なる同盟関係にあるジュリス王国から大量のジュリス王国産のホースを入手できる。
ジュリス王国の馬(ホース)といえば、ジュリス王国が国策として生産に力を注いでいる最も重要な産物であり、ヴェルト大陸一という評価を得ており、それを否定出来る者は皆無であった。
今回の偽逃走にあたって千人の兵は全てクーロ軍の精鋭兵、そしてホースは全てジュリス王国産であった。
そのためクーロの理論上の考えによれば、モスタクバル将軍率いる軍に追撃されたとしても、その追撃軍に追いつかれるなどということは全く想定していなかった。
むしろモスタクバル軍の追撃をジュリスの馬(ホース)が圧倒的な脚力によって引き離してしまい、モスタクバル軍が早々に追撃を諦めてしまうといったことの方に危惧を抱き、追撃軍を引き離さない程度の速力でホースを駆けさせることに気を配る必要があると、当初は考えていたぐらいであった。
しかし蓋をあけてみれば、クーロたち逃走する兵たちは、必死にジュリスのホースを駆けさせなければいけない事態へと陥っていたのであった。
これはこの逃走劇後のクーロとパインロの会話によって、いくつか理論と現実の間における重大な齟齬が生じていたことが伺える。
「パインロ先生。あの時の逃走は敵を釣るための策謀であったにも関わらず、途中、何回も死を覚悟したものでありました。策というものは、いくら練っても練り過ぎるということはないのですね」
〔参考 用語集〕
(人名)
クーロ(マデギリークの養子。大官)
ヌイ(クーロ、ツヴァンソと同世代の指揮官。将軍)
パインロ(クーロの弓の師であり、クーロの隊の一員)
バッサート(ミケルクスド國三将軍の一人)
モスタクバル(ミケルクスド國三将軍の一人)
(国名)
ヴェルト大陸(この物語の舞台となる大陸)
ソルトルムンク聖王国(ヴェルト八國の一つ。大陸中央部に位置する)
ミケルクスド國(ヴェルト八國の一つ。西の国)
ジュリス王国(ヴェルト八國の一つ。西の国。聖王国と同盟を結ぶ)
(地名)
ヘリドニ地方(ソルトルムンク聖王国の一地方)
(その他)
三将軍(ミケルクスド國で最も優れた三人の大将軍のこと)
ホース(馬のこと。現存する馬より巨大だと思われる)