私は、常に何処か”寂しさ”を感じているのかもしれない。。幼少期から、ぬいぐるみに囲まれて寝るのが好きだった。好きな保育園の先生に構われたくて、よく泣いていたのかもしれない。


絵を描くのも誰かに”褒めて”もらいたくて、やっているのかもしれない。動機は何であれ、”描く”ことで私は、私であるという認識を保てる弱い人間なのかもしれない。


植物の緑と生命、青い空の真下、空間を突き抜ける絵画の中での世界で私は自身の”魂”を揺らす。そして、揺れ動く。そして、自分にいつも問うのだ。私が届けたいことはなんだろうか?と。


私が住んでいる今の町。

私を取り囲むものの形。

そして、私を必要としてくれる人達。


全てが混ざり合って、今の私が形成されているのを実感する。それは、時として移り変わり、今みている景色は明日に同じものをみたとしても、同じにはならない。少しずつ、生まれ変わっている。


その生まれ変わりを具現化したものが、”絵画”であり、私自身の”魂”であるのだと気付かされる。今、描いたものは2度と同じ様には描かれない。それは、生々しさとも言える。そして、現在進行中の”生き物”の様なものだ。


そして、また何を届けているか。という問いに戻る。


絵を売り物にしている時点で、私は綺麗事は言いたくない。しかし、絵というものは画家の生きた証であり、その眼差しは唯一無二だと断言できる。その絵画は、人によってはノイズのようなものだ。またある人にとっては心地よいものになる。


大きく括れば、”文化”をアーティストは形成していると言ってもいい。しかし、その”文化”は、人に共有され、拡散し、大切に所有されて、後に残ったものでないと廃れてすぐ消えてしまうものである。


私が目指すのは、”新たな絵画”の更新である。それは、茨の道だ。何故なら、まだこの世にない”新しい価値”を世間に認めさせなければいけないからだ。


その為には、アーティストがいて、ギャラリストがいて。キュレーターやコレクター、美術館があって。様々な関係性やそれぞれの思惑が絡み合って、美術品は守られていくものだ。それを酸いも甘いも咀嚼して、アーティストは味わい続けていくのだ。


私はおじいちゃんになっても絵を描き続けていきたい。

その為に”今”の自分が何をすべきか選択し、そこに賭けている。同じ人間なのだから、私という人間が飽きられてしまっても、それは仕方がない。しかし、ただ挑み続けている姿をみせ続ける。それが、今の私にできることだ。


”挑戦”することは、タダなのだから、恐れず挑戦し続けようと思う。今後の展示、依頼の作品、目には見えないけれど、植物が根を生やす様に進行しつづけている仕事が沢山ある。やることは、いっぱい。


だけど、私は焦らない。作品は、大切に描く。その為に、まだ見たことのない景色をみる為に色々な経験をしていこうではないか!!と奮闘中だ。


花が咲くまで、もう少々お待ちください。

貴方の”魂”を揺さぶります。