イギリス料理が「まずい」原因は、産業革命だった!?――学校では学べない世界近現代史入門 | 勇者親分(負けず嫌いの欲しがり屋)

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何が食文化の衰退を招いたのか?
その背景には社会と経済の変化があった

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 イギリスの料理はまずいとしばしば言われる。まずい理由として、美食を欲しない国民性である、ピューリタンの影響で食の楽しみが罪悪視された、あるいは、気候が冷涼で食が単調になるなどの俗説はあるが、いずれも、学問的には支持しがたい怪しげな説である。

19世紀から「まずく」なる

 うまい/まずいは直接的には個人の好みであって、食の属性ではない。うまい/まずいといった主観的な印象評価を離れて、食を客観的に分析するために、筆者は、食材の多様性、食材の在地性・季節性、調理方法の多様性という3つの指標を設定した(小野塚[2004]、[2010])。この3つの指標だけで食を論じ尽くせるわけではない。食文化史の本来的関心からは、実際に食べられた料理や食べる場・状況が重要なのだが、料理や宴席は史料として残りにくいため考察の対象とするのが難しい。それに比べると食材や調理方法は、残されたレシピを用いてかなり正確に再現できるので、客観的な検証にたえる。

 中世末から現代(ほぼ20世紀)までのイギリス料理にいかなる食材が用いられてきたか調べてみよう。中世末から近代までの間にもイギリスの食のあり方は変化しているが、食材という点では、近世(ほぼ16~18世紀)に急増する熱帯産香辛料とジャガイモを除けば、19世紀初頭までその種類は安定している。表1と表2はそうした食材を示す。

 このうち表1は19世紀中葉には用いられなくなった食材を、表2はこの時期から現代まで用いられ続けた食材を表す。19世紀中葉以降は表3の食材が新たに登場する。ここから明らかなように、19世紀前半の数十年間に食材多様性が著しく低下し、在地食材が(それゆえ食材の季節性も)ほぼ消滅した。19世紀中葉以降のイギリスの食は大量生産可能な農業牧畜産品、トロール漁業産品と、工業製品で占められるようになる。食糧輸入は増加した時期だが、香辛料の役割はむしろ決定的に低下した。こうして、香りと味の華やかさを欠いた、近現代のイギリスの食が登場することになる。

 ただし、トロール漁業で水揚げされたタラ・オヒョウと大量生産されたジャガイモで作られたフィッシュ・アンド・チップスや、同様に大量生産食材を用いたベーコン・アンド・エッグズは、19世紀後半以降の下層階級の栄養状態を改善するのに貢献した。産業化したイギリスは熱量の点では豊かさをもたらしたのだ。

 また、調理方法も単調化した。たとえば、調理の基本である加熱は、19世紀後半までに、塩茹(ゆ)で、オヴン加熱、油で焼く/揚げる(近代英語では油で焼く、炒める、揚げるはfryの一語で表す)の3種に収斂(しゅうれん)し、かつてあった、蒸(む)す、直火で炙(あぶ)る、遠火で熱するなどさまざまな方法が消失した。また、野菜を生食するサラダも19世紀前半には消滅し、その後はキャベツやカリフラワー、にんじん、ジャガイモ、カブなど根菜類を塩茹でしたものをクリーム系のドレッシングで和えた「茹でサラダ」が登場した。調理方法の多様性の低下は料理の味付けにもおよび、調理段階では最低限の塩・胡椒(こしょう)が用いられるだけとなった。むろん、そのままではまずいから、食卓で、食べる者が塩・胡椒や、グレービー、酢、ケチャップで自ら味付けるという、料理人の責任放棄ともいうべき現象が蔓延することとなった。

 以上のように19世紀前半にイギリスの食は3つの指標の点で多様性を失った。それをここでは「食文化の衰退」と表現することにしよう。これは経済的な貧困化とは別の現象である。食文化衰退以前のイングランドには、中世以来、実に豊かな食の伝統があった。特に、18世紀のイギリス料理は多様多彩で、中世以来の伝統を受け継ぎながら、在地と外来のさまざまな食材と種々の調理方法を駆使する高みに達していた。

 表4はその一例である。川カマス(pike)のガレンタイン・ソース添えは15世紀中葉のレシピで、内陸部でも夏場には容易に入手できる大型淡水魚の川カマスを主食材に用いる。淡水魚は、当時の人々にとって重要な動物性タンパク質であると同時に、祭りの食卓に変化を与える重要な食材だった。現在のイギリスでは鱒(ます)以外は顧みられないが、ヨーロッパ大陸では川カマスは多用されている。次のサラダも15世紀のレシピで、ドレッシングは植物油、酢、塩だけの単純なものだが、まず油で和えて、食べる直前に酢と塩をかけるというように、生野菜の食感と風味を引き出す工夫がなされている。

 スコッチ・コロップス(17世紀末)は羊の薄切り肉の炒め煮である。バターで薄切り肉を軽く炒め、そこへニンニク以外の他の材料を入れて数分加熱する。ニンニクを擦り付けて温めた皿に盛り付ける。羊の薄切りさえ用意しておけば(「半クラウン硬貨の半分の厚さに切る」技術は並大抵ではない)、数分でできる料理だが、手早さと絶妙の火加減を要求される。この中華料理のような瞬間芸的な調理法も、後のイギリスでは消滅した食の技法である。赤ワインと酢のソースはアルプス以北のヨーロッパでは肉(殊に内臓)料理にしばしば用いられる基本的なものである。鹿肉の壺焼きは18世紀中葉のレシピで、野生鳥獣料理の最も豪華な食材である鹿肉(venison)の保存料理である。野生鳥獣(game)を用いた料理は現在の日本ではジビエ(gibier)などとフランス語で呼ばれるが、イギリスではほとんど消失してしまった。3~4時間、低温のオヴンで、バターとパイ皮で蓋をした壺に入れて加熱することで、鹿の風味を維持しながら、柔らかく調理する。加熱後は、鹿の臭みを残さないために壺の中から肉を引き上げ、別に保存する。酢漬け野菜とともに供する。主人は鹿肉を入手できる猟場ないし財力を有することを自慢する。18世紀の鹿料理では赤ワインと酢のシチューもある。

 これらはヨーロッパ大陸のアルプス以北の地域(地中海沿岸の植物油食文化圏に対して、獣脂食文化圏に属する)の料理に似ており、衰退以前のイギリス料理がヨーロッパと連続した食文化の中にあったことを示す。大陸には現在までさまざまに個性的な食文化があるのに、イギリスがそれを失った原因は何だろうか。

なぜ「まずく」なったのか?

 食を需要側と供給側に分けて考察してみよう。誰でも何かを食べるのだから需要側にはあらゆる人が含まれるが、ここでは、日常の簡素な食事とは区別して、その地域・時代の個性を代表する食、すなわち祝宴やクラブ、レストランなどで供される正餐(せいさん/dinner)に限定して考える。イギリスではこうした贅沢(ぜいたく)な食の主たる需要者であった富裕層は、17世紀中葉の革命と内乱の時期を除けば、ほとんど衰退していない。貴族や大地主などの伝統的・在地的富裕層が残存しただけでなく、18世紀以降の経済成長の結果、都市にも商業的な富裕層が、19世紀以降は産業的な富裕層も存在するようになった。富裕層は衰えなかったし、彼らは食に対する支出を惜しまなかった。夥(おびただ)しい料理書の出版、豪華な厨房と調理器具の設置、外国人シェフの招聘(しょうへい)、有名なレストランの隆盛、さらにメディアにおける食に関する記事・番組など、食への関心の高さは近世から現在まで一貫している。

 では、誰が正餐を供給したのだろうか。貴族や富商の食事はむろん彼ら自身が作ったわけではない。宮殿・邸宅やレストラン・クラブで富裕層のために調理をした料理人は例外なく下層階級か、中産階級の下層の出身である。では、富裕ではない生まれ育ちの者たちはいかにして豪華で豊かな食文化を生み出すことができたのだろうか。衰退以前と衰退以降との比較、および大陸との比較を通じて検出される相違は、暦の中に祝祭が位置付けられたか否か、そうした祝祭を維持してきた「村」と「祭り」が存続し続けたか否かである。

 イギリスも他の先進社会と同様に農業革命を経験している。農業革命とは、産業革命に先立って(あるいは同時進行して)、農業生産性を向上させた変革である。イギリスでは、第1にクローバー栽培や有畜輪作など農法上の変化、第2に借地大規模農場経営や三分割制など農業経営形態の変化、第3に議会囲い込みや共有地(commons)の私有化など土地制度の変化である。農業革命がなければ、増える商工業人口を養えないので、産業革命には必ず農業革命がともなわざるをえないのだが、そのあり方は国によって異なる。ここで問題なのは、18世紀後半~19世紀前半の農業革命がイギリス農村に与えた、緩慢だが不可逆的な変化である。

 議会囲い込み以前のイギリス農村では農民は共有地に入って果実、野生鳥獣、魚、キノコ等を採集する入会(いりあい)権を有していた。共有地は表1に見られる多彩な在地食材の宝庫だったのだが、囲い込みによって共有地が私有化されると、入会権が消滅し(無断で立ち入れば不法侵入、そこで何かを採集すれば窃盗に当たる)、下層農民にとって在地食材の利用可能性は大幅に低下した。さらに、囲い込みによって中小規模の自営農が衰退し、彼らの土地は大地主に集約された。その土地を借りて大規模農場経営を行う農業資本家が発生し、その農場では農繁期に農業労働者が雇用され、農閑期には解雇された。こうして、年間を通じた生活の場としての農村は消滅し、小農の菜園・庭畑地(これもまた在地食材の宝庫)は荒廃した。自分の菜園で注意深く栽培したものならいざ知らず、どこの誰が作ったかわからず、それゆえ家畜・家禽の糞尿がかかっているかもしれない生野菜は生食可能なものではなくなった。サラダの消滅は「村」の消滅の端的な結果である。

 変化は食材にとどまらない。かつて村では、年間を通じた居住のなかで、農事暦・教会暦の節目にさまざまな祭礼や結婚式などの祝宴が催された。こうした「祭り」は、貧しい人々が普段は接しえない珍しく高価な食材を使って、その土地の個性と季節性を活かした料理を作り、食べ、飲み、歌い、踊る重要な場で、領主・地主・有力者からのふるまいも宴を豪華にした。贅沢な食の需要者は富裕層に限定されていなかったのだ。

 ところが農業革命により、資本主義的農場経営が導入されると、村も祭りも消滅し、下層階級が豊かな食と音楽・舞踏を経験し、その能力を涵養(かんよう)する機会も失われた。食の能力は学校や教科書では伝授しにくい。豊かな食を大人たちとともに作り、食べる現場を、幼い頃から祭礼のたびに何度も経験して、はじめて食の能力は涵養される。それゆえ、産業化の過程で村と祭りを破壊したイギリスは、培ってきた食の能力を維持できず、味付けや調理の基準も衰退して、料理人の責任放棄が蔓延(まんえん)することとなった。他国の農業革命はイギリスほど徹底的に村と祭りを破壊しなかったので、民衆の食と音楽の能力は維持されたのである。

衰退後のイギリス料理

 土地の個性と季節性を活かした豊かな食が衰退した後も、政治家や実業家たちは、贅沢な食を必要としたから、代わりに「フランス」風の記号をまとった正餐が、ただし男だけの宴席で、隆盛することになった。都市では中産階級の女性たちを中心にティーが高度に発展した。日本で人気があるのは、諸種の茶葉や茶器、サンドイッチ、スコン、タルトなどの軽食、それに洒落た会話から成るティーである。サンドイッチに挟まれた薄切り胡瓜(きゅうり)はかつての生野菜サラダ――食が豊かだった時代――の記憶を微かに甦らせたものである。

 1950年代以降、バカンスを享受できるようになったイギリスの労働者はスペイン、ポルトガル、ギリシアなどの安価なリゾート地に出掛け、現地の料理に接するようになった。それから一世代を経て、その子どもたちの世代に新たな食を志向する動きが出現する。それがいわゆる“Modern British”である。自分たちの食を追求する試みと見ることができるが、この「新しいイギリス料理」は地中海沿岸のどこかにありそうな料理の模倣(もほう)の域を出ない。食の能力は教習しがたいだけに、真に個性的な食は容易には再生しないようだ。

(小野塚 知二)