「うつ」ではなかった娘の心のうごめき(後編) | 勇者親分(負けず嫌いの欲しがり屋)

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高校に入った時から「何かやばい」と

 発症までの経緯を尋ねてみると、次のようだった。

 地元の小、中学校を卒業後、高校に進学した。そのころから、周囲に起きていることが「何かやばい」と感ずるようになったが、敢あえて誰にも言わなかった。

 高校3年時、スポーツ大会に参加し、足をくじいてアキレス腱けんを切ってしまった。高校卒業後2年間、整形外科に通院しながら受験勉強をして医療系大学に入学、一人暮らしを始めた。「足を悪くしてから、物事が変になった」と、いぶかしく思うようになっていった。

 大学3年時、教員から「様子が変だ」と、精神科を受診するよう勧められた。大学近くのメンタルクリニックに2年間通院し、不安をやわらげる作用のある「抗不安薬」を処方されてきた。

 大学卒業後、国家試験に失敗し続けた。実家に戻り、疲れ果てて、今回、こちらの精神科診療所を訪れた。


当事者の苦悩に寄り添う治療

 活気が落ち、感情の抑揚が乏しく、一つ一つの話の内容につながりを欠いた。自分の考えが察知され、周囲に伝わり、心の内が暴かれる「つつぬけ体験」、事実に反し、嫌がらせを受けていると確信してしまう「被害妄想」、「殺してしまえ」と、まことしやかに聞こえてくる「幻聴」にさいなまれ、疲れ切っていた。これまで2年間通院してきたものの、そうした精神面の「うごめき」には気づかれてこなかった。

 問診を終えたところで、「幻覚妄想状態」と判断した。あくまで控えめに、「統合失調症」と暫定的に診断した。ただ、事態は切迫している。すぐにも服薬してもらう必要があった。

 母は「娘はうつ」と思い込んでいた。本人にとっては、自身の心の「うごめき」は疑えぬ事実であり、よもや精神障害から生じていようとは思ってもいない様子だった。それでも、母娘ともに「 辛つらい状況を何とかしたい」と、すがる思いに変わりはなかった。

 のっけから、「幻覚妄想状態です。治療薬を処方します」などともっともらしく伝えても、受け入れてもらえるはずもない。ましてや、神経遮断物質だのドパミン受容体だのと、精神薬理学の知見を懇切丁寧に説明し始めようものなら、当事者の思いから遠ざかり、はねつけられてしまう。治療者はさしあたり、当事者から投げかけられた「辛い状況を何とかしたい」という思いに、くみするしかすべはない。


 「神経が過敏になって、外からの色んな刺激や情報に、意味が見いだされてしまっているのかもしれません」「外からの刺激を受け止め過ぎないよう、神経、脳を休ませてあげましょう」「薬もけっこう役立ちます。外からの刺激に過敏になるのを防いで、神経や脳を保護する働きがあります」

 精神薬理学の用語を、人間の主観に共鳴する言葉に言い換えないことには、当事者の苦悩に寄り添えようはずもない。


治療で表情も明るく「恋もしたい」

 幸い、本人は、こちらが薄氷を踏む思いで投げかけた提案を、静かに聞き入れ、薬を試みてくれることとなった。まずは、即効性のある、リスペリドンという液状の抗精神病薬を1日1ミリグラム、服用してもらった。

 1週間後の受診時、「何となく嫌な感じはあるけど、気持ちは乱れてはいません」と話した。受診を重ねるたびに、表情と口調が明るくなっていった。白やパステルカラーの装いで、化粧を整えて来院するようになった。

 3か月後には、「青春を取り戻したい」「恋もしたいです」と、快活に話した。国家試験に再挑戦するには至らないものの、家事を手伝ったり、買い物を楽しんだりするほどの余裕を取り戻した。

 活動範囲が広がっていることを共に喜んだ。さらに、自宅以外に「居場所」をつくり、社会交流のきっかけをつかむとともに、一日の生活リズムを維持するために、日中活動の場「デイケア」を併設している他の病院に、受診先を変えてもらうことになった。それまでの間、滞りなく定期的に受診し、服薬し続けられていることに、ただ敬服し、ねぎらうばかりだった。


寂凡(しずなみ)

精神科医
慶応義塾大学文学部卒業、全国紙東京本社入社。地方部、社会部に配属され、取材競争のただ中にあって、「生きることと死ぬことのあり方」への探求に駆られるようになり退社。国立医科大学卒業。精神保健指定医、日本精神神経学会精神科専門医、日本医師会認定産業医。