http://www.asahi.com/health/sanada/TKY201102080170.html
病院の待合廊下に人気はなくシンと静まりかえっている。外気が入らない暖かい場所に守衛がつれてきてくれたので、ここは少し奥まっているのだろう。
「あ~、びっくりした・・・」
Yさんは独り言を言った。缶コーヒーを飲み終わる頃には、ようやく落ち着いてきた。
さて、これからどうしようか? あのお客さんはきっとあのまま集中治療室みたいなところに入院になってしまったのだろうし、そもそも自分はあのお客さんをたまたまここまで運んだだけで、名前もなにもわからない。お客さんを乗せた飲み屋街からここまで高速料金も含めると結構な額になるけど、今それを払え、とも言えないし。病院から家族に連絡が行って、そのうち家族がここへ到着するんだろうか? それまでここにいるわけにもいかないし・・・。
時計に目をやると夜中の2時過ぎだった。もう少しくらいはお客さんを乗せられるかな。Yさんはベンチから立ち上がると、パンパンと洋服の前をはたき、自分の顔をはたき、少し気合いを入れて廊下を歩き始めた。
「ま、人助けできたんだし・・・」
守衛室の前についた。
「あのう、○×タクシーですけど。車のキーをこちらであずかってもらっているって聞いたんですが・・・」
ガラス越しの小さな窓から中にいる守衛に向かって声をかけた。さっきの若い守衛さんが対応してくれるのかと思ってのぞいてみたけれども今はいないようだ。
「○×タクシー? 車のキー? ・・・ああ、わかった、わかった。これの事ね!」
引き継ぎをしたらしい初老の守衛は、物置トレーの上に置いてある車のキーを持ってきた。メモ書きが添えてあるのを老眼の目で読もうと、手元から離して読んでいる。
「え~っと、・・・車は、救急外来入り口横の緊急職員呼び出し駐車場の一番奥にいれてあります・・・だそうです。ここの出口をでて、左にずっと行ったところね。すぐにわかりますよ」
Yさんは軽く会釈をすると、そのまま出て行った。
若い守衛は、定時の院内の見回りをしていた。夜の病院内に異変があってはいけない。病人がたくさんいるところだからこそ、安全を確保することがより一層大切だと思っている。大学時代をずっとスポーツをして過ごしたけれども、その時つちかった体力が今こうして自分の仕事として「人の役に立てる」事が、誇りに思えるようになってきた。さっきの患者さんをタクシーから担ぎ出せたのも日頃の体力作りの賜。自分の好きな事が生かせるここに勤務できたのは運がよかったと思っている。
「さっきの運転手さん、大丈夫かな?」
ラウンドの最後に先ほどのタクシー運転手を待たせた待合廊下を通ってみると、もう人影はなかった。
「戻っちゃったのかな?」
急いで守衛室に戻るともう一人のおじさんがお茶を飲もうとするところだった。
「タクシーの運転手さん、来ましたか?」
「ああ、来た、来た。車のキー渡しといたよ」
「一応連絡先とか聞きましたか?」
「え? そんなこと聞かなくちゃいけなかったの? ただ車のキーを預かっていただけじゃなかったの?」
「いえ。まぁ、そういう意味ではちょっと車とキーをあずかっただけです。でも、事務の方もあのタクシーの運転手さんの事、何も把握してないんじゃないのかなぁ・・・」
夜中に心臓発作の客を必死に病院まで運んで、名前も告げずに帰ってしまったタクシー運転手。若い守衛君は、頭が下がる思いがした。