ゆう♪のブログ -24ページ目

ゆう♪のブログ

ブログの説明を入力します。

毎度閲覧どうもですv(・∀・*)

夜な夜なブログup☆


いつも書いてるブログはネット動画の文字転載をさせて頂いてます。今日は前回ブログの続き。


大東亜戦争について特定アジア3国意外ではちゃんと日本の功罪を評価してくれています。当時の日本を擁護している方々のその言葉をを転載します(^-^)

感想・評価については、読んでいただいた方に任せたいと思います。




D・マッカーサー元帥
「(日本には)石油がない、鉄がない、綿がない、ゴムもない。その供給を絶たれたら、どんな小国でも戦争を決断する」



GHQ参謀部長 C.ウィロビー
「東京裁判は史上最悪の偽善だ。もし米国が同じ立場だったら日本と同じように戦っただろう」



歴史家 A・トインビー(英国)
「第2次世界大戦において、日本人は日本のためよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残した。それらの国々とは日本の掲げた短命な理想、大東亜共栄圏に含まれた国々である。日本人が歴史上のした最大の業績は、世界を支配していた西洋人が不敗の神ではない事を示した点である」



中華民国顧問 O・ラティモア
「日本が立派にやり遂げたことは、欧米の植民地帝国を完全に破壊したことである」



社会学者 H・ミアーズ女史(米国)
「東京裁判は正義ではなく、明らかなリンチだ。私たちアメリカがどうして日本を罰する事ができるのか?私には理解できない」



ネール初代インド首相
「彼ら(日本)は謝罪を必要とすることなど我々にしていない。それ故、インドはサンフランシスコ講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない。」
(52年、日印平和条約締結)



G・デサイ(印弁護士会会長)
「インドの独立は日本のお陰で30年早まった。この恩は忘れてはならない」



R・パール判事(インド) 
原爆慰霊碑の碑文で激怒
「過ちとは誰の過ちか?原爆を落としたのは日本ではなくアメリカだ!まだ、アメリカの手は清められていない」



インパール作戦について
チャンドラ・ボース
「インド国民軍はインド完全解放のために日本の友情と共に戦い抜く。デリーへ!」
インパール作戦慰霊碑のある村の村長の言葉
「日本兵は飢餓のなか、勇敢に戦い死んでいった…この絶望的な、しかし勇敢な行動はインド独立の糧となった。この慰霊碑は日本兵の供養であり、独立インドの象徴なのです」



バ・モウ ビルマ首相
「我々を白人支配から救いだしてくれたのは日本だった。我々は大戦終盤に日本を身限ったが、その恩はわすれない。日本ほどアジアに貢献した国はない。日本ほど誤解を受けている国はいない」



ウ・ヌー ビルマ外相
「高い理想と目的の高潔さに動かされたある国が、アジアの独立と民衆の解放に生命と財産の全てを犠牲にした。その国の名は日本という極東の島国だ」



マハティール マレーシア元首相
「日本の責任を問うならば、非人間的な支配と収奪を続けた欧米の責任はどうなるんだ?」



G・シャフエー マレーシア外相
「なぜ日本が謝るのでしょうか?あの大戦でマレーシア人と同じ小さな体の日本人が大きな体のイギリス人を追い払ってくれたづはないですか。日本なくして東南アジアの独立はありませんでした。日本が払った尊い犠牲を否定することはバックミラーばかり見ているようなものです」



T・クーマン タイ副首相
「日本の勇戦で新しい独立国が不死鳥のように現れました。誰に感謝を捧げるべきか余りにも明白です」



プラモード首相(タイ)
「日本のおかげでアジアは独立できました。日本というお母さんは、母体を壊してまでもアジア諸国という子供たちを産んでくれました。今日、アジア諸国が欧米と対等に話ができるのは誰のおかげか。それは自らを殺めてまで産んでくれた日本というお母さんがあったからだ。我々は12月8日を忘れてはならない」



シャルル・ドゴール(仏)
「シンガポール陥落は白人植民地主義の歴史に終焉をもたらした」


マレーシア・シンガポールの独立
ラジャ・ダド・ノンチック(上院議員)
「我々は日本軍を歓呼で迎えた。日本は将来の我々の独立のために多くのものをもたらしてくれた。我々は日本から学んだ最大のものは、国を守る術だった」



Z・アビディーン(歴史家)
「日本軍政はマレー人に独立の種を撒き成長させた」
1957年 独立(マラヤ連邦)
1963年 マレーシア成立
1965年 シンガポール追放 現在の体制となる。



シンガポール(65年分離独立)
ゴー・チョクトン首相(シンガポール)
「日本の統治は過酷なものだった。しかし、日本軍により欧米のアジア支配は粉砕された。これはアジアに自信を与えた。大戦後15年以内にアジアの植民地は全て解放された」



ビルマの独立
オン・サン(ビルマ独立の父)
ビルマ独立義勇軍の創設者の一人
イギリスからの独立を目指し日本へ脱出。30人の同志と共に日本の軍事訓練を受ける。
41年 独立義勇軍 創設
「日本の軍事訓練は厳しすぎた。何度か自殺を考えるほどだった。しかし、ラングーンが落ちたとき、我々は間違っていないことを確信した。」

1943年8月1日 独立を宣言
しかし、日本軍の劣勢は彼らに決断を迫る。独立維持の密約をイギリスから取り付けたオン・サンは日本からの離反を決意。同志の説得を開始する。

ミン・オン(義勇軍創設メンバー)
「その判断は正しい。ビルマが生き残る術は他にない。しかし…私は日本を裏切ることはできない」ミン・オンは離反を拒否し自決の道を選んだ…

終戦後、イギリスは密約を無視。再植民地化に乗り出す。
イギリスはそれが不可能であることをすぐに悟った。
日本とオン・サンらに育てられたビルマ義勇軍10万がイギリスに立ちはだかった。

1948年1月4日 ビルマ完全独立
式典にオン・サンの姿はなかった。
(47年7月暗殺、32歳)

バ・モウ(初代ビルマ首相)
「真の独立記念日は1948年1月4日ではない。1943年8月3日だ。独立の真の理解者は東條大将と大日本帝国だった」



インドネシアの独立
資源の宝庫であるインドネシアは疲弊した宗主国オランダにとってどうしても手放せない植民地だった。

M・ハッタ(スカルノに並ぶ独立の父)
「日本の戦いは8月15日に終わった。我々の戦いは8月17日に始まった」
1946年 オランダ軍進駐開始(約12万)
1947年 オランダ軍全面攻勢 国連の停戦要請を無視
1948年 再度全面攻勢に出る
1949年12月 国連を無視し続けるオランダにアメリカが怒り、マーシャルプランを停止しオランダに経済的圧力をかける。
1949年12月27日 完全独立

オランダは腹いせに多額の債務をインドネシアに要求した。
これを戦時賠償の形で肩代わりしたのが日本だった。

サンバス 復員軍人相
「戦争が終わった後、多くの日本人が帰らず我々と戦ってくれた。国軍墓地に祀り勲章を贈った。しかし、それだけでは足りないものを彼らは我々に与えてくれた」

アラムシャ 陸軍大将
「日本にはあと5年頑張ってほしかった。そうすれば中東とアフリカはもっと早く独立できたはずだ。中東もアフリカもこんなに苦しまずにすんだはずだ」



ナーセル 第2代エジプト大統領
(第3次中東戦争惨敗後)
「アジアには日本がいた。アラブには日本がいない」



ブン・トモ インドネシア元情報相
「あの戦争は我々の戦争であり、我々がやらなければならなかった。それなのに、全て日本に背負わせ日本を滅亡寸前まで追い込んでしまった。申し訳ない」




最後までご覧頂きましてありがとうございました。



この言葉、出来事、歴史のひとつでも教わった方はいますか。僕は自分の学校生活において残念ながら一度もありません。
戦争なんです、日本が全て正しいとは思ってないし、望んでもいない。
でも、自分の認識にあった歴史観と大きく離れているこの史実について いま、時を越え光をあてたい。
この言葉を、遠い海の向こうで倒れ、語られずに埋もれた亡き日本人に捧げたい。

そう、心から。