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『もう一度日本時代に戻りたいです』



台湾は別名をフォルモサともいう。
16世紀にやってきたポルトガル人が、緑溢れるその美しさに感嘆して「フォルモサ…麗しの島」と呼んだ。その麗しの島で、かつて台湾人と日本人が力を合わせて幸福な時代を築いた。それは俗に「侵略」といわれている行為とは、全くかけ離れた真実が隠されている。


私達は、その真実に誇りを持たなくてはならない。



昭和20年の春

台湾南部を走る満員の汽車のステップに立ち、振り落とされまいと必死に鉄棒につかまっている 12、3歳の少女『楊素秋(日本名:弘山貴美子)』さんがいた。

台湾第一高等女学校(4年生の旧制中学)を受験するための参考書などを詰めたリュックを背負い、3日分の米と野菜を入れた布袋2つが両腕に痛いほどくいこんでいた。

隣に立っていた20歳くらいの日本人の将校さんが心配そうに「大丈夫ですか」と聞くが、もう返事をする気力も残っていなかった。足下もおぼつかない女の子を見て将校さんは、「その荷物を捨てなさい。早く捨てなさい」と言った。

ちょうど汽車は鉄橋にさしかかって、鉄棒から片方の手を離して荷物を捨てたとき… ゴーと鉄橋に渦巻く列車の轟音にハッとした楊さんは、左足をステップから外してしまった。

「助けて」

叫ぼうとしたが、目の前が真っ暗になって意識を失ってしまった。


遠くで聞こえていた大勢のざわめきが、段々と近くなってきた。

誰かが頬を叩いている。

「気の毒にね、いたいけな子供が顔が真っ青だよ。」

「いやぁ、その軍人さんがいなかったら、この子は川の中だったな。」



気がつくと、楊さんは知らないおばさんの膝の上に抱かれていた。おばさんはニコニコしながら「あぁ、よかった。息を吹き返さなかったら、どうしようか心配していたのよ」と、楊さんのおかっぱ頭を撫でた。

台南駅に着くと、おばさんは楊さんを抱いて窓から外に出してくれた。窓の外には、あの将校さんが待っていてくれて楊さんを抱き降ろした。

汽車のステップの上に立ち、自分の荷物を抱えて立っているだけでも大変なのに、その将校さんは気を失って転落しかけた楊さんをとっさに掴み、引っ張り上げてくれたのだった。

下手をすれば自分も一緒に落ちてしまうかもしれないのに…


「あのう…お名前を教えていただけますか?」


「ハハハ、子供のくせに。いいから気をつけて帰るんだよ」


将校さんは手を振って、汽車に乗り込んだ。
爽やかな笑顔だった。




楊さんは、その後、名前だけでも聞いておけばよかったと50年以上も悔やむことになる。生きている間にもう一度お会いして、お礼を言いたい…

そんな想いを抱きつつ、楊さんは戦後、成人してから小児麻痺の子供10人と健常者の子供20人を預かって育てあげた。

あの将校さんは自分の命を助けてくれただけでなく、他の人に尽くす力も与えてくれたのだった。



楊さんは昭和7年、台南市に生まれた。

日本統治下に生まれた父親は完全な日本人になりきっており、楊さんが生まれてからは家庭でも日本語で通した。

日本時代の街の特徴は、とにかく清潔なことだった。かつては「風土病の地」と呼ばれた台湾の衛生状態を改善するに日本政府は力を入れたのである。

治安も良かった。

今の台湾では窓に鉄格子をしているが、日本時代には鉄格子のない家で、戸締まりなどしなくても安心して眠ることができた。道端で物を拾っても、自分のものにすることもなかった。

楊さんの家の前には派出所があり、日本人のお巡りさんがいた。楊さんが時々落とし物を拾って届けると、「君、また拾ってきてくれたのか」と褒めてくれた。

天皇誕生日などの祝日には、街中の家が日の丸を掲げていた。台湾は即ち日本であり、自分達は「台湾に住んでいる日本人」としか思っていなかった。


楊さんが小学校に入って、最初の担任となったのは宮本先生という綺麗で優しい先生だった。

楊さんが落とし物を拾って届けると、宮本先生はまた楊さんの手を引いて家まで来てくれて、父親に色々と楊さんのことを褒めてくれた。父親は目尻を下げて聞いていた。宮本先生に限らず、当時の先生方は生徒に自分の子供のように接し、また親とも緊密な信頼関係を築いていた。

3年生の時の担任は、小谷先生という男の先生で楊さんの家の裏に住んでいた。授業では、楊さんは修身の時間が大好きだった。先生は偉人伝の本を読んでくれたり、紙芝居を見せてくれたりした。楠木正威、二宮金次郎、宮本武蔵から野口英世、東郷元帥、乃木大将、そしてエジソンやキューリー夫人…これらの人物が艱難辛苦を乗り越えて、立派な人になった、という話しに楊さんは感動して自分もそうなりたい、と思った。

先生は「我が国には昔こういう偉い人がいた」という具合に教えてくれた。
「日本には」とは言わなかった。
だから楊枝さんも「我が国」と覚えてきた。

毎朝の朝会では明治天皇の御製(御歌)などを朗詠するので、楊さんたちも自然に覚えた。その中にはこういう御歌があった。


新高の山のふもとの民草も茂りまさると聞くぞうれしき


新高とは台湾の代名詞である。明治天皇が日本人と同様に、台湾の民をご自分の民として想って、その繁栄を喜ばれていることがよくわかった。




昭和18年、楊さんが5年生の時には、台南市でも米軍の爆撃が激しくなり、一家で祖母のいる大社村という田舎に疎開した。そこにも若い兵隊さんたちがおり、日本語の話せる楊さん一家に、自然に遊びに来るようになった。

兵隊さんが時々映画を見せてくれるので、そういうときは「貴美ちゃーん、映画に行かんか」と誘ってくれる。楊さんは「はーい」と言って元気に家を飛び出す。5年生で小さな楊さんは周りが皆兵隊さんばかりで画面が見えないので、いつも肩車してもらうのだった。




楊さんの幸福な日々も、日本の敗戦とともに終わりを告げた。

その最初のショックは、中国から蒋介石の軍が上陸した時だった。


シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒に鍋と七輪をぶら下げ、こうもり傘を担いでだらだらと歩いていた。手で鼻をかんだり、痰を吐いている人もいて、まるで乞食の行列だった。

こんな兵隊がやってきて、台湾はどうなるのか、と心配になった。



終戦2年目の1947年(昭和22年)2月28日には、蒋介石政府の横暴に起こった民衆が台湾全土で暴動を起こした。

228事件である。

そのきっかけを作ったのは、中国人の密輸タバコ取締官が台湾人の女性の所持金を取り上げ、銃で殴っているのを、日本海軍から戻ったばかりの若者が守ろうとしたことだった。


この暴動を鎮圧するために、全土で3万人近くの台湾人が中国軍に殺された。


蒋介石政権の戒厳令は40年間も続いた。そしてようやく「中華民国」から脱却して『台湾』への道を歩み始めたのは、「私は22歳まで日本人だった」と語る前総統・李登輝の時代になってからである。

日本時代は、人民は政府を信頼していました。そして、それに応えるかのように政府も人民の生活を良くしてあげたいという気持ちを表していました。また、兵隊さんも先生方も、お巡りさんも良くしてくれ、街中至る所にいい雰囲気が溢れていました。

そして、危険を顧みず身を賭して走る列車から見ず知らずの人を救う真の『心』を持った日本人が、大勢いたのです。
それが、普通の時代・国でした。


日本時代とは私にとって、素晴らしい時代であり、私の人生の道標をこしらえてくれたと言っても過言ではありません。私の向かうべき人生の指針を与えてくれました。
私の心の中には、いつも綺麗な日の丸の旗が翩翻(へんぽん)とはためいています。

もし、タイムマシンで元に戻れるなら、もう一度日本時代に戻りたいです。
あの平和で穏やかな時代に。
『日本人はとても素敵だった』楊素秋(日本名:弘山貴美子)



YouTube動画より、転載。




3月11日、東北太平洋沖大震災

台湾からの義援金は世界一の200億円を突破して現在も増え続けています。直後から台湾をあげて支援が行われました。決して経済大国ではない国からです。義援金の多い国がよいということではありません。


今更ながら心から感謝を伝えたい。そして謝罪をしたい。
この民主党政権下の日本は、台湾からの救援隊を拒否したことを。過去、前述の李登輝総統の来日も拒否しています。また、NHKは台湾が反日かのような印象操作をした番組を放送、台湾の人達も怒りました。日本はスパイ及び工作員を摘発する仕組みがありません。なので知らない人も多いですが、政界、財界、官公庁、マスコミ等に多数の工作員が日本人になりすまして暗躍しています。これは陳腐な都市伝説や陰謀サスペンスではなく本当のことです。戦後、連合国に植え付けられた、日本は侵略をした悪い国。という自虐的な史観を利用して行われています。NHKは中国の意図、プロパガンダがあからさまになっています。
先月10月27日、NHKに対しての大規模なデモがありましたが、報道されていません。




台湾からインターネット書き込みに、こんなメッセージを見かけました…
「日本が中国に気を遣って、どんなに無視されても…日本が大好き。震災に負けず頑張ってください」


日本が承認している国は世界で192ヵ国。この中に台湾はありません。あなたは何を感じますか。



世界には、個人ではどうにもならないパワーバランスがあるでしょう。軍事的にも経済的にも大国主導なあり方や考え方もあるでしょう。
だから何だ。と本気で思う。日本人が戦後、歴史の記憶を消されかけようとしても台湾は覚えていてくれた。そして震災で支えてくれた気持ちや絆は、どんな謀略策謀も打ち破って守りたい。


インターネットでは、台湾、日本両国の人達で『謝謝台湾』とたくさんのありがとうのメッセージが溢れています。そして、台湾からも応援のメッセージと支援が続いています。こんなに仲良く大好きな国がすぐ近くにある。困ったときこそよく分かるよね、大切な友達の存在って。だからちゃんと気付いて。


そう、この出来事から心のままに、個人として日本という国として、台湾をもし大切な友達と感じ、想い、支えあう日本人であれば、僕らは日本を取り戻さないといけない。
前回ブログに書いたけど、グローバル化という本質は、その国の歴史や社会価値観に真実を見せる。

もし、僕のブログ(転載ばっかりです)をひょんなことからご覧頂いた方に、今まで書いてきたようなことを知らなかった方がいたら、これをきっかけに生まれた日本のことを知ってほしい。

日本の覚醒と言うんです、僕もそうなったとき、映画『マトリックス』のようにちょっと感じました(^-^)



謝謝台湾♪心からありがとう。