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『決して恩を忘れないトルコ』
YouTube【テヘランの日本人を救ってくれたトルコ】【親日友好国時にはトルコ】より転載



今から100年以上も前、
1890(明治23年)9月16日
紀伊半島南端 串本沖


トルコ皇帝が日本に派遣したオスマン帝国海軍(現在のトルコ海軍)
フリゲート艦 『エルトゥールル号』

オスマン・パシャ少将を団長とするオスマン帝国初の親善訪日使節団として明治天皇に謁見した帰路だった。


9月16日夜半 紀伊半島沖
台風による大時化にあおられ、岩礁に衝突し、座礁。機関部浸水のあと、水蒸気爆発。
エルトゥールル号は沈没した。

大時化の暗い海に投げ出された乗務員達に、助かる術はなかった。


オスマン・パシャ少将以下
死者、行方不明者あわせ 587名


和歌山県串本沖
大島村(現在の串本町)に、運良く流れ着いた乗員がいた。数十メートルの崖を這い登り、言葉が通じずとも 助けを求めた。



灯台守は「異国の船が遭難した」と村に知らせた。そして、村人総出の決死の救助が始まった。


大島村樫野
時化で出魚できず、食糧は乏しかった。避難者は寺、学校、灯台へ運ばれ村人の献身的な介護を受けました。
非常用のニワトリまでが与えられた。

台風のなかの救助は命がけでしたが絶望的な状況で69名の乗員が救命された。夜が明けると海岸には多くのトルコ人の遺体がうちあげられていた。


遭難の一報は樫野区長から大島村村長へ、村長から神戸の領事館へ。エルトゥールル号の乗員達は、無事神戸の病院へ収容された。新聞は大々的に報道し、全国から義損金が集まった。


明治天皇は、大島住民に感動された。
大日本帝国海軍コルベット艦 金剛、比叡をもって乗員をトルコまで送り届けるよう命令した。


翌年1月2日、
オスマン帝国首都、イスタンブールに到着。エルトゥールル号の69名は再び祖国の土を踏むことができた。


この一件は、オスマン帝国でも大々的に報道され多くのトルコ人が、はるか東の国、日本を『近しく親しい国』と感じ友好国としてのきっかけになった。


また、トルコと日本
両国には共通の敵がいました。
帝政ロシア

トルコはロシアの南下政策に悩まされ、クリミア半島を取られたのをはじめ1877年にはイスタンブールさえ落とされました。
崩壊の危機でさえあった。
そしてロシアの南下政策は極東にまでおよび、ウラジオストクに海軍の根拠地を築いていた。さらに、旅順及び大連を1898年に租借。増大するロシアの脅威に対して日本は講義・談判を行ったが逆にロシアは極東への兵力を増強して日本への圧迫を強化した。

この国防の危機に、日本の進む道は一つしかなかった。


1904年 日露戦争勃発
日本陸軍は中国大陸に上陸。
各地でロシアと激戦を繰り広げた。辛うじて勝ってきた。旅順では乃木希典が苦戦していた。3度の旅順総攻撃。数万の死傷者を出し、全て失敗した。しかし、遂に要害203高地を占領。陸軍は最大の山場を乗り越えた。


その頃トルコでは、
日本連勝の報に沸き上がっていた。また、ボスポラス海峡の閉鎖をし、ロシア黒海艦隊とバルチック艦隊の合流を最小限に留める努力を影でしてくれた。ロシア最後の頼みは、当時の最大艦隊と呼ばれた、バルチック艦隊。つまり海戦に賭けられていた。


日本海海戦
「知謀涌くがごとし」と称された、名参謀・秋山真之の電文が大本営に打電された。
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動。これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」

ロジェストウェンスキー、東郷平八郎
互いに国家の命運を背負っていた。


そして、2日間に渡る戦いが繰り広げられた。

決戦は、
日本の圧勝に終わった。
ロシア38隻の敵主力艦はほぼ全てが壊滅した。無事にロシアに帰れたのはたった3隻の小艦艇だけだった。対して日本側の損害はわずかに水雷艇3隻のみ。

世界海戦史上稀なる完全勝利であった。


トルコでは、新聞は自国のことであるかのように日本勝利の記事で飾られた。市民は街中を歓呼の渦で埋めた。
その年に生まれた子供には、トーゴーの名がつけられました。





時は流れ、エルトゥールル事件の95年後、舞台は中東へ…


1985年(昭和60年)3月19日
明日へと日付が変わる前
イランの首都テヘラン近郊
閑散としたテヘラン空港で、絶望した日本人215人がいた。


5年前に勃発した イラン・イラク戦争
一時の膠着状態は終わり、首都にも弾道ミサイルが着弾する激戦状態へと発展した。


遡ること2日前、
イラク大統領サダム・フセイン
「今から3日後の3月20日午前2時をもってイラン全土の上空を戦闘空域とする。当該空域を飛ぶ航空機はすべて攻撃対象とし…撃墜する」
いずれの国であろうと、民間機であろうと、関係がなかった。

フセインの声明に世界中が慌てふためいた。先進各国は在イラン自国民を救出するため、我先にチャーター機を発進させた。


日本政府は日本航空にチャーター機を依頼し邦人救出に向けて動き出し、現地大使館に指示を出した。


イランに滞在する日本人は、急いでテヘラン空港へ向かった。
空港に行けば助かる…日本に帰れる…

しかし、

日本からのチャーター機が飛ぶことはなかった…。

JAL(日本航空)
「イラクが指定した時間内に安全空域まで脱出できるという保障がなければ飛べない」


すでに成田空港に到着し、離陸準備に入っていたJALチャーター機は、ついに飛び立つことはなかった。



テヘラン空港は押し寄せる外国人で大混乱だった。すでに大半の国際線が欠航し、どの航空会社も自国民を優先して乗せていた。日本人を乗せてくれる便はどこにもなかった。


イラク軍機の空爆が続くテヘラン市内のホテルで日本人たちは、絶望と恐怖に怯えながら大使館からの情報を待った。


3月18日夜半、
もはや万事休すと思われた土壇場、日本大使館から連絡が入った。


トルコの特別機2機が到着。
日本人乗客全員を乗せテヘランを脱出した。
タイムリミッドのわずか1時間15分前であった。




トルコが特別機を派遣した理由について、当時のトルコ外交筋はこう説明したという。

「エルトゥールル号の借りを返しただけです。」




遠く離れていても、永い時が経っても。一つの出来事を忘れないで、困ったときに助けてくれてありがとうと言いたいです。


過去の恩をとやかく言う気はないですが、近くの何処かの数国に聞かせてやりたいかな。



トルコはテヘランで自国民より優先して日本人を助けてくれたそうです。そのくらいのことをしてくれたのに、1隻の船の件をもって借りを返しただけと。それ以上は何も言わず。武士道ですね(^-^)


個人の間でも、過去の良い思い出や出来事を忘れないでいてくれる人や友達ってやっぱり大切ですよね。そして信頼して繋がっていられる。ちょっとした過ちもまた受け止めあって仲直りして、また笑える。
でも、過去のことをいつまでもネチネチされたら無理だなぁ~と思ったりするのも普通ぅ。


日本の歴史においては困った捏造( ̄▽ ̄;)…、でも最近はホントに多くなった、自虐的な史観から解放された日本人が。自分だってちょっと前まではそうだったけど 今は本当の歴史を見てる。日本にだって、これはちょっと良くないなって歴史があってもちゃんと見つめられるよ、そしてそこから学んでもっと良くしたいと思える。だって素敵な出来事で繋がっている世界の国がある日本なんだから。日本の誇りです。これも僕らのちょっと前の世代、そしてトルコに感謝しています。



…てことも近くの何処か数国に言ってあげたい。ちゃんと自分の歴史に向き合ってね。