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新田ジムとの出会い

2003年2月に川崎市多摩区にオープンした新田ジム


会長は元東洋バンタム級チャンピオンだった新田渉世氏 トレーナーには元金子ジムの新田会長の後輩だった 坂本さんや孫さんがいた。


自分には新田さんにも金子ジムにも何の面識もありませんでした。

俺の師匠だった 伯耆淳さん(現ワタナベジム)と新田会長が現役時代 対戦してる事 今ではそれほど珍しくはなくなったが、妻子持ちボクサー 国立大出身ボクサーとして新田渉世というボクサーは度々、雑誌等にクローズアップされてたので名前も勿論知っていた。


しかし、なぜに俺が新田ジムなのだろう? 古巣のワタナベジムでトレーナーならわかるが、 新田ジムと出会ったきっかけをこれから話します。


新田ジム開設当時、まだ俺はワタナベジムの選手でした。 その頃にバイト先の後輩が近所に新田ジムがオープンしたというので、ライセンス取得を目指して入門すると聞きました。


その会社には俺の他に後に日本Sバンタム級チャンピオンになる山中大輔(白井具志堅)のお兄さんもいて 職場はボクシングがよく話題になってました。その影響を受けたK山君が新田ジムに入った訳です。


新田ジム開設から半年経った2003年8月の試合を不甲斐ない試合内容で敗れ リングの上で『もう、やめよう』と誓いました。

体も心もすっかり疲れきってました。並の才能の男が10年 頑張って 手にした称号は元日本8位という肩書きのみ 最後になった試合のビデオは今でも見てません 左頬が異常に腫れて(本当に有り得ない位!) 明らかにバッティングなのに 馬鹿レフリーは有効なパンチによるものと判断しTKO負けとなりました…


激しい痛みに抗議する余力もなく リングを降りました。 試合が終わった事にホッとしてか バッティングかパンチかなんて どうでもよくなってました。 負けてもちっとも悔しくなかった


「なんでだ?なんで悔しくないんだ?おかしいな?なんだろ?この感情は…」 負けても悔しくない ホッとしてる自分にもうリングに上がるのは危険と判断したんです。


その試合後はしばらくバイトしては夜、パチンコ屋に行ってました。夜、ジムに行ってた時間がパチンコ屋になりました。 何も楽しくない日々…


よくバイトの仲間とも接していて K山君から『僕の練習見に来て下さいよ 僕に教えて下さいよ』と会う度に言われていたので、暇だったし 一度、新田ジムに見学に一緒に行く事にしました。 小さなジムながら活気に満ちてました。


その日、初めて新田会長と会いました。 物腰の低い方でした。少しボクシング話をしてK山君の練習を見て その日はジムを後にしました。


何日か経って K山君から新田会長が『こないだの彼 引退するなら、うちでトレーナーやってくれないかな?』って言ってましたよ最初は俺には無理だよと遠慮気味だったけど、段々、またボクシングに携わるのも悪くないなと感じはじめました。 まだ、ワタナベジムにけじめつけてないので、しっかりけじめつけてからと伝えました。


ちょうど、その頃 前出の河野対菊井 第一戦を見たんです。 試合内容には感動したけど、自分は燃えてこない トレーナーのオファー受けてる事 渡辺会長に全て伝えました。『そうか、井上なら良いトレーナーになれるな』と渡辺会長は快く送り出してくれました。 渡辺会長の心の広さに感謝してます。

それから新田ジムのトレーナーになり現在に至ります。 当時、出来たばかりで 伝統も歴史もない新興ジムというのも 気に入ってました。これから自分達で歴史を作ればいいのだから しかしボクシングはやるのも難しいけど、教えるのも難しい… 担当選手もドンドン増えてるから 自分も日々勉強です!

松川!

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