桜の花が咲く前の梅の花観賞に女房さんの企画監修

 

山口県光市室積「冠山総合公園の梅まつり」

 

(2/11~2/25)に行ってきました。

 

行ってみれば、他にも見るところはあるものです。

 

 

 

梅まつりメイン会場

 

梅林の丘の麓にたこ焼き・おにぎりなどの出店が

 

あります。

 

 

 

 

ここでアルコール度数Oのイチゴ甘酒(米・米麴とイチゴ

 

を原料)と梅大福を土産に購入。

 

梅大福は中に甘く加工した種入り梅が入っており

 

梅まつり限定とのことで人気のようです。

 

売り切れており次の入荷まで30分程待って購入。

 

 

家でイチゴ甘酒を作ることにトライしてみようかと

 

思っています。

 

 

 

 

丘に登りながらの梅の花見開始。

 

 

 

 

 

丘の頂上から、傾斜地にかけて梅が咲いています。

 

 

 

 

梅林の至る所に俳句の石碑が置いてある。

 

傍に水仙の花も咲いています。

 

 

 

 

瀬戸内海と梅が同時に見れる。

 

梅の花は種類により咲き具合が違うようですが

 

平均して6~7分咲きのような感じでした。

 

 

 

 

花見の後に丘の麓にある「冠(かんむり)天満宮」に参拝。

 

祭神は菅原道真公。

 

 

(創建の由来)

 

菅原道真公が太宰府に左遷された途中に風波を避けて

 

この地に寄港。

 

1~2日滞在した際、厚くもてなされたことのお礼にと自分

 

の冠を残した。

 

その三十数年後に「東の山の梅の木の場所に社を建て

 

冠をご神体として祭るべし」というご託宣があり

 

承平5年(935)に創建したと書いてあります。

 

 

 

この社に冠石を祀っている。

 

 

 

 

(冠石の由来)

 

祀ってある冠石は冠を収めた場所と伝えられている。

 

 

 

 

海商館で昼食

 

海商館はみたらい湾に面する「海商通り」にある。

 

この辺りは古代から瀬戸内航路の港町普賢寺の

 

門前町として栄えた所です。

 

風情のある町並みがありますが、食事ができる場所は

 

数か所程度です。

 

 

 

 

女性4人で切り盛りしています。

 

石焼料理が名物で、私は「石焼き海鮮ごはん」を女房さんは

 

「石焼き海鮮塩焼きそば」を注文。

 

1分間よく混ぜて食べます。

 

味はなかなかいけます。

 

 

 

 

2階が食堂で1階はお土産店になっている。

 

焼き物食器・小物類が多く、食品なども置いてあります。

 

 

 

 

海岸にサウナ

 

「普賢寺」近くのみたらい湾の海岸線に半円形の構造物

 

が見えたので珍しくて寄ってみた。

 

 

 

 

スタッフに了解を得て中を見た。

 

1年前から営業しているらしい。

 

薪で石を熱して温度を上げる仕組みの北欧スタイル

 

のサウナ。

 

 

 

 

サウナ後に湧海水(海底から湧き出た海水)を汲み上げ

 

満たした木の樽に入り、みたらい湾の景色を見ながら

 

浸かる。

 

結構利用者がいました。

 

 

 

 

 

 

サウナのお隣さんに「普賢寺」があります。

 

仁王門をくぐって参拝。

 

 

 

    吽形像                 阿形像

 

 

 

普賢寺の寺歴要約

 

兵庫県の書写山にある円教寺住職性空上人

 

漁師によって海から引き揚げられた念願の普賢菩薩像を

 

ここ光市室積の地で拝むことができた

 

その後に普賢菩薩像を本尊として御堂が建立された。

 

 

余談ですが書写山円教寺はトムクルーズと渡辺謙主演の

 

 「ラストサムライ」のロケ地として話題になった所。

 

 

 

 

参道

 

 

 

 

 

普賢寺本堂

 

 

 

 

周囲に掘りがあり、天気が良く暖かいので亀が甲羅干し

 

しています。

 

有害外来種ではないですよね。

 

 

 

 

甲羅干しの亀もカワイイものだと思っていましたが、

 

水面上の石に数匹ずつ亀がうようよいると気味が悪い。

 

 

 

 

 

再び海に出てみた。

 

室積港

 

古くから瀬戸内海航路の良港として栄えた。

 

江戸時代には北前船や各地の廻船が立ち寄り、商いが

 

行われ廻船問屋、商家等が立ち並んで繁盛していた。

 

明治中期に鉄道開通や大型商船の登場で次第に

 

さびれていった。

 

 

 

 

周防橋立と呼んでいる「象鼻ヶ岬」の先端が右に見える。

 

 

 

 

象鼻ヶ岬の突端まで歩いて行く。

 

海の水は綺麗に透き通っています。

 

この周辺には西日本屈指の美しい海水浴場がある。

 

 

 

 

岬先端に「大師堂」がある。

 

普賢寺から岬の大師堂までの路傍に道しるべとして

 

四国八十八ケ所に因んで、室積象鼻ヶ岬八十八所

 

に大師尊石像が並んでいる。

 

 

 

 

岬から光市室積の町を正面から見たところ。

 

 

 

 

大師堂

 

岬の突端まで来ました。

 

大師堂があります。

 

1200年前頃に弘法大師が唐より帰って来た際立ち寄り

 

自像を刻み、自然石に厨子を彫られて安置されたと

 

伝えられている。

 

 

 

 

室積港灯台

 

 

 

 

室積台場

 

岬の外側(外洋)に江戸時代末期、異国船の来航に備え

 

長州藩が海岸防備のために造った砲台場です。

 

大砲二門を据え付けていたという。

 

 

 

 

岬外側の瀬戸内海の景色。

 

 

 

 

 

【歴史探偵・・伊藤博文公編】

 

光市室積から帰宅する途中の光市束荷にある伊藤博文

 

生家を訪ねた。

 

伊藤公記念公園に到着。

 

 

この公園には生家、旧伊藤博文邸、資料館(各種遺品

 

の大礼服・硯や筆・家具など、昭和38年(1963)に発行

 

された肖像入り旧千円札の第1号券なども展示されている。

 

庭には伊藤博文の銅像があります。

 

 

 

 

生家

 

熊毛郡束荷村(現光市束荷)の生家を元の位置に

 

復元されたもの。

 

天保12(1841)に貧しい農民の家庭である林十蔵・琴子の

 

長男(林利助)としてこの茅葺の家に生まれた。

 

 

 

 

産湯の井戸

 

生家の裏に産湯に使ったとされる井戸も残されている。

 

 

 

 

6歳(1846)の時、父十蔵が萩に働きに出て、母琴子の

 

実家に預けられる。

 

 

9歳(1849)の時、母とともに萩の父十蔵のもとに移る。

 

 

14歳(1854)の時、父十蔵が長州藩下級武士伊藤直右衛門

 

の養子になる。

 

林利助改め伊藤俊輔を名乗り、農民から下級ですが

 

武士になる。

 

 

17歳(1857)の時、萩城下にあった吉田松陰主宰の

 

松下村塾に入門し学ぶ。

 

師の吉田松陰は尊王攘夷の思想を持っていたようです。

 

塾生には高杉晋作、山県有朋らがいた。

 

この入門が伊藤を政治家の道に導いたきっかけに

 

なったと思われる。

 

 

19歳(1859)の時、桂小五郎の事務方として江戸に行く

 

 

22歳(1861)の時、高杉晋作らと品川御殿山の英国公使館

 

の焼き討ちに参加

 

伊藤は尊王攘夷運動に加わっていたがその後は

 

開国論者となっていった。

 

 

23歳(1863)の時、井上馨ら4名と長州ファイブと呼ばれた

 

5人衆は国禁を破り長州藩留学生として英国に密留学した。

 

この時代・状況でよく行けたものだと思います。

 

この留学で海外との国力・文明の違いに衝撃を受けて

 

外国船を打ち払う攘夷よりは、海外と対抗するためには

 

国力、国の体制(憲法・法治国家)を整備することの

 

重要性を身に染みて感じたようです。

 

 

26歳(1866)の時、梅子と結婚。

 

長崎のグラバー商会と汽船購入契約を結ぶ。

 

 

27歳(1867)の時、大政奉還。天皇中心の新政府が樹立

 

された。

 

 

 

生家には父林十蔵、母琴子と利助の一家団らんの様子

 

が人形で再現されている。

 

 

 

 

28歳(1868)の時伊藤博文と名乗る

 

横浜が開港され外国人居留地もあるため

 

英語力・交渉力を買われて兵庫県知事に就任した。

 

 

31歳(1871)の時、英語力を買われて岩倉使節団の

 

副使としてアメリカ、ヨーロッパへ派遣される。

 

派遣目的は「不平等条約の改正」と「欧米の政治制度、

 

文化の調査研究」だった。

 

不平等条約の改正の交渉は不成功に終わった。

 

 

その後政府は伊藤をヨーロッパ諸国に派遣して各国の

 

憲法を調査させた。

 

ドイツの憲法を参考にして草案を作成。

 

 

45歳(1885)の時、初代内閣総理大臣となる。

 

伊藤の草案を基に明治天皇も加わり枢密院議長として

 

憲法の制定に加わり1889年「大日本帝国憲法」

 

発布し、近代国家を目指し尽力した。

 

 

69歳(1909)の時、中国ハルビン駅で暗殺される。

 

 

 

 

旧伊藤博文邸

 

初代内閣総理伊藤博文公が自ら基本設計したもので

 

洋館木造モルタル二階建て、内部は和洋折衷様式。

 

遠祖 林淡路守通起の没後300年にあたり林家・伊藤家

 

の一族を招いて法要を行うために建てた。

 

明治42年3月着工、明治43年5月に完成。

 

伊藤公は明治42年10月に中国ハルビンで暗殺されたので

 

完成した館は見ることはなかった。

 

 

 

 

伊藤博文邸内部(和式仕様部分)

 

 

 

 

洋式仕様部分

 

 

 

 

 

 

伊藤邸の二階からの景色。

 

生まれた頃はもっと田園風景の田舎だったはずです。

 

 

 

 

資料館

 

レンガ造りの明治風建築。

 

伊藤公ゆかりの品々の展示、シアターホールで30分間の

 

アニメによる成長の過程や業績の紹介をしています。

 

 

 

 

旧伊藤博文邸前に立像。

 

平成16年3月(2004)に建立。

 

 

 

 

梅の花を見に行ったのですが、周辺にも他に見る

 

ところがありました。