11月29日に、脚本家、山田太一さんがお亡くなりになった。
もう、2週間近く経つのだが、ふとした時に、名作「車輪の一歩」を思い出す。
不思議なほど、毎日思い出す。
  
山田太一、といえば「ふぞろいの林檎たち」を真っ先に思い出す方が多いと思う。
僕も「ふぞろいの林檎たち」は大好きだった。思い出深いシーンもたくさんある。
でも、僕に取っての山田太一は「男たちの旅路」
中でも「車輪の一歩」

 
車椅子の障害者の生活、知られざる苦悩と、社会の障害者へのあり方を描いた作品。

あれほど真正面から、テレビ放映でありながた切り刻むようにグサグサと問題を切り開いて見せたドラマは相当な衝撃作だったのではないだろうか。

 

ラストシーンで堪えきれずに泣いた。
当時僕は13歳。
テレビドラマを見て、人生で初めて「泣いた」のが「車輪の一歩」だった。
今も最後の斎藤とも子さんの姿を思い出すと自然と涙が出る。
見た事のない方、のために、詳しい事はネタバレになるので書きたくないが、ラストシーンの斎藤とも子さんの姿は、今でも、何かに勇気を持てなくなったときに、自分を奮い立たせる最大の勇気を伝える映像だ。
なにかで観る機会もあるかもしれないから、詳しいストーリーは話さない。
チャンスがあったら、是非とも観て欲しい。名作中の名作だ。
  



なんなら、この写真ですでに泣く。
  


僕の家は川崎市高津区、にある。

山田太一さんは長い事、同じ高津区にお住まいでいらっしゃって、僕の家からだと自転車で15分程度のところなのも知っていた。というかこの街に住んでいる人は結構みんな、あのあたりに山田太一さんがお住まいだった、と知っている。
以前は講演会などもなさっていたと聞く。

 
普段あるく場所のあちこちに、山田太一さんが日常にいらっしゃっていた話がある。
そのせいなのかもしれないが、ほんとうに今、毎日、車輪の一歩のラストシーンを思い出す。
     
13歳で初めて見て、その後、なんどか再放送があって、
今、57歳になって、山田太一さんがお亡くなりになったことでまた、毎日思い出す、
 

斎藤とも子さんと雑踏と階段
  
些細なことで勇気をなくしたとき、何かに立ち向かわないといけないと覆うとき、
ずっと僕の心の中で生きていたのが、あのラストシーンだ。
     
僕の街で、残念ながら、山田太一さんをお見かけしたことはない。
「車輪の一歩」僕にとってのなんであったのか、きっと同じように、あのドラマを大切に心に持っている人が日本中にいるのだろう。
自分の作り出したものが、誰かの心の支えになる。
僕非力ながら、たぶん、目指しているのはそう言うことなんだろう。

あらためて、山田太一さんの偉大さよ。
素晴らしいお仕事を、ありがとうございました。
一生思い出します。