本来、ワンマンライブの復活、は、
2月18日の鹿児島ライブだったんですね。
ただ、それを、復活ライブ、と自分では呼べない理由があった。
単純に、体調がまだ全然まずかったんです。
去年の11月ごろから、ミニライブを復活し始めて、だいぶ体力を保てるようになったけれど、
この辺りの時点では、
体調が改善されてきたのか、それとも、
倦怠感に慣れてしまったのか、
そう言うところがもうわかんなくなっちゃってた。
そういうことについては、
もう、書いても書いても後から後からこんな事があんな事が、いっぱいあって、
それこそ、それを「お話会」で話すなら、5時間くらい必要なくらい、
そのくらいいろんな事があって、いろんな不調があって、
それは、ひとつひとつ小さな不安を重ねているような状態で、
では、その中のどれをどのくらい治したら、復活と言っていい状態になるのか、、
そもそも、ほんとうに復活なんかできるのか、、
そんな感じで、いろんな問題が、大阪も名古屋も続いて。
だから、4月いっぱい、また休んだ。
でも、しかたなく、ではなくて、すごくポジティブに休みにした。
4月いっぱい、しっかり鍛えてしっかり休めば、きっと劇的に良くなる。
という、なんだか自信があったんです。
それまでの、回復の仕方から考えて、きっとそうなる、って思った。
だから、4月、運動の強度を上げて、それまで、夜8時半くらいには寝てたけど、
大丈夫、って思うまで夜も起きてるようにした。
って言っても10時くらいには寝ちゃってたんだけどね。
疲れちゃうんです。 そのくらいまでしか元気がもたない。
5月14日に、復活ライブ、と銘打ってやる事を決めたのは、
香葉村真由美ちゃんのマネージャーのウォーリーから、
「ワンマン復活、って言えるのはいつ頃になりますか?」
って言う、かなりストレートな質問があって、
「それに合わせて、香葉村が主催させて欲しいと言っております」
っていうありがたいオファーがあったわけです。
僕、その時に、もう、5月には復活って言いたい、ってものすごく思ったんですね。
「単発で一回」のライブなら確実に成功できる自信があった。
でも、復活ライブって言っておきながら、、
「その後に、またぶっ倒れちゃったら、どうしよう・・・」
っていう不安がある。
それを思うのを止める事にしたのです。
そう思っても、いいやって、、
もしダメだったら、
「すいません、やっぱまだ無理でした」
って言って、また活動休止したらいいよ。
って思いました。
どこかに、5月には、気候も良くなって、きっと身体もちゃんと、保てる、って言う自信があったのね。
その後に、仕事つめつめにしたりしなければ、絶対大丈夫だ、って思ってた。
ところが、、、
4月の半ばから、すごく大気が不安定になってたんですね。
4月14日あたりから、どーんと喘息の調子が悪くなった。
毎晩苦しいし、毎朝苦しい、昼間も結構てへーてへー、って咳してた。
実は、今現在もそう。
でも、訓練、って裏切らないね。
それでも、歌える、ってのがわかった。
それはすごい発見でした。そしてそれだけ鍛えてきたのか、って嬉しかった。
喘息は、大気と心で動く、って僕は思ってる。
これは、コントロールできる、って、気候的に大気が不安定になった事で逆に自信がついてきた。
そうやって、4月16日に一回だけ、クローズドのイベントがあって、
1時間半ライブやって、2時間お話しする、って
それは僕にとって、ギャンブルみたいな、結構長丁場のイベントで、
それが大丈夫なら、もうその後、きっと大丈夫って思って臨んだ。
そこに、そのイベントを思い切って入れていた事が、神の思し召し、くらいに思えた。
その1日、なんとか持ち堪えられた。楽しかったし。
そして、5月14日。復活宣言のライブの日。
相変わらず、気道にうすく膜をはったような粘液が切れない状態で、
雨も降るのか、降らねえのか、みたいな、台風に次いで喘息にはいやな天気で、、、
でも、なんだろう、、
僕はそれが「ありがたい」ように思えてたんです。
ものすごい闘志みたいなものが沸いてた。
格闘家が強い相手に当たった時のような、、
「のぞむとこだ」
と、一人でいると、ちょこっとニヤ、っとしてしまうような、
そういう、不思議な落ち着きがありました。
この状態で、このライブが成功できたら、
俺がほんとうに、復活、と言っていい状態になる。
そんな気持ちがありました。
そして、ライブ中、気道の状態、肺の状態、
その時に出していい声、
出したら滑ってしまう声、
かすってしまう声、
むしろかすれさせられる声、
潰していい声、
でっかくバーンと出してしまえば、粘膜の状態をとばせる声、
完璧に近いコントロールができていたように思います。
僕がやりたかった、こう言う風に歌えば、2時間、いや、体力さえもてば3時間でも問題なく歌えるだろう、って言うやり方が、きっちりハマってくれた。
これが、できるなら、たとえば調子を悪くした時でも、
(っていうか、以前の、いい状態、なんてもう見込めないから)
うまくやれる、
むしろ、以前より進化している歌、になる。
以前の、「なんでもできる、どうとでもなる」
と言う状態ではなくなったからこそ、その都度をどうするべきか、という選択肢がきちんと整理されたように思います。
それは言い換えれば、そんなつもりはないけれど、今までが少し怠けてたんじゃないか、、って気もするんです。
病気に、救われたんじゃないかと思うんです。
絶対に治す、って、強気の姿勢も大事だったと思うけれど、現実を見る事も大事。
一般に言われるように、成人の喘息は医学的には治らないのかもしれないし、
歌手としては、いつも爆弾を抱えるような事になったわけだけど、
それと引き換えに今の歌い方とメンタリティを持つ事ができたと言う事なら、案外僕にとってとても大事なことだったんじゃないかな。
そう思いたいだけかもしれないけど、僕自身のことだから、僕がそう思う事にしたのだからそれでいい。
ラスト3曲を迎えて、(アンコールを含めれば残り5曲)
「ぜんっ、ぜん余裕だ。 あと、1時間続けられる」
って思っていました。
そして、まだちゃんと動けなくて、体が一番つらくて、本当にもう復帰は無理かな、って思っていた時、
僕を一番支えてくれた、
自分の歌が自分を支えてくれる、、と本当に初めてそう思った、
「メッセージ」
を歌う時、
一つだけみなさんに、俺は頑張ったから、褒めて欲しいと、
応援して欲しい、と、
スタッフが入り口で全員に配ってくれたサイリムライトを振ってもらったのです。
これね、ステージから観た方がずっと綺麗なの。
僕からが一番綺麗に見えたと思う。
この時、僕は、やっと、はじめて、
「本当に帰ってきた」
って思いました。
鹿児島も、大阪も、名古屋も、その後の、結構長時間だった、クローズドイベントの京都も、
いいライブができた、とは思った。
でも、帰ってきた、とまでは思えなかったんです。その後に不安がありすぎて。
みんなが振ってくれるサイリウムの光をみながら、メッセージを歌って、
ほんとうに帰ってきた、と思った。
この時、僕は、ひとつ思い出していた言葉があります。
「サミイは、歌う生物」
仲良しの、
Chiyo Tia、
そして残念ながら、お亡くなりになっちゃったけど、
村上ポンタ秀一さんとのユニットChiyoPon のスーパーギタリスト
濱中祐司さん、
「サミイは歌ってると、人間、ってより歌う生物(せいぶつ)って感じだよね
歌うためにいる生物、なんだな、って」
って言葉を思い出してた。
僕、歌う生物だったな・・・・
歌う生物に戻れた気がするな、、、
って思ってた。
2023年5月14日。
これ、一生忘れないと思う。
僕は、ほんとに帰ってきた。