「天文館のリッキー」
       
この歌の中で、歌うたびに、あの歌詞が心に響いた、刺さった、と言ってもらえる一節がある。
     
「伝わるか伝わらないかでは無く 

  伝える事を諦めない事を伝えよう」
        
これ、歌中では、僕自身が発した言葉のように出てくるし、
歌詞としては僕が書いたもので間違いないけれど、
この言葉を言ったのは、リッキーさんです。
    
僕はよく、
「メッセージ性のつよいミュージシャン」と言われるけど、
自分に向けて作ったものであって人に伝えようとして歌ってはいない。
むしろ、だからこそ、聴いてくれる人もご自身に向けてものとして受け止めてくれるのだろうと思う。
と言うような発言をしていました。
おそらく、これからもそういう発言はする。
    

  
これ「天文館のリッキー」の歌詞と矛盾してとられるだろうと思う。
でも、僕の中ではきちんと整合性のある事なんです。
    

        

     

ミュージシャンで生きていくってのは、やっぱりいろいろ難しい事というか
思うようにいかない事もあって、
特にまだ、全然知られてなくて、お客さんが集まってくれなかった頃とか、
                
当時、僕はまだ、すごく人に頼ろうとするところがあって、
期待した事が期待通りにいかなかったり、
理解されない事が多いと感じていたり、
まあ、つまり、なにしろ、結局のところ、
     
自分の歌、に対する自信を、今一つ持つ事ができず、
人の評価ばかりを気にしていたんだろうと思うんですね。
       
人に評価されなきゃ、食っていけないんだから、
だから、気に入られなきゃいけない。
そう思っていた。
    

   
まず、歌って生きていける事、
そのために、人におもねる事も必要だと思っていたし、
必要なら自分を下げる事もしなきゃいけないと思っていたし、
どこか、下卑たところがあった。
そうではない生き方をしたかったはずなのに、自分の選んだ人生に、怯えていたと思う。
後悔はしていなかったと思う、でも、猛烈な不安の中で生きていた。
   

      
覚悟、が薄かったんだろうと思うんですね。

そんなある日、
     
期待した通りに行かない事だとか、
歌もいまいち理解してもらえない、
伝えたい大事な事は誤解されて伝わらない、
なんだか歯車が噛み合わない、
     
    

「結局人は、人の話なんか聞かないし、

 調子いい事だけ言って、世の中なんか冷たいもんで・・

 歌だって、中身を聞いてるわけじゃないんだろうし、

 どうでもいいような歌が流行ってるばっかりで・・」

          
    
そんな事で、リッキーさんに愚痴っていた事があった。
まあ、漠然とした話だけど、、
なんか、こう、しょっぱい、男らしくない事を、
うじうじと、リーキーさんにこぼしていた事があった。
まあ、かっこ悪いよね
  
日頃のいろんな鬱憤みたいなものがね、でたんでしょうね。

     

    
リッキーさんは、そこで、
イライラする様子もなく、至っていつもと同じように、
すこし、ニヤっとしながら、

ㅤ        

      

「伝わるとか、

 伝わらないとか、

 そんな事を誰かに求めて

 歌ってるんじゃないだろ。

 伝わるか、伝わらないか、

 なんて自分本位な考えは吹っ飛ばして、

 ただ、伝える事を決して諦めない。

 そう言う生き様を伝えればいいだけだろ。

 本気で伝えるってのは、

 そういう事なんじゃないかな」
     
        
って、そんな感じの事を言ったんです。

その時に、僕は、自分のブレブレの弱さ、って、
覚悟のなさ、
だ、って思ったんです。
     

  
わかってもらおうとする、って、自分の芯がないんです。

わかってもらおうとするんじゃない、
「自分はこうです」
だけでいい。
 
その時にそう思った。
自分勝手でいい、って事じゃないよ。
        
信念と、てめえ勝手な言い分、を履き違えて、自分ばかりを通して人に散々迷惑をかけてもいい、って言う事じゃない。

そこに、人に対する思いやりがあって、初めて成立する事。
           
「自分はこうです」という芯、を持って生きている、それだけでいい。
誰かにわかってもらう事、を意識しすぎれば、自分の芯を周りに合わせる事になる。
そして、見返りを求めようとする。
   

    
歌は、もちろん人に認められたい。
でも、人は自分と同じじゃない、みんな違う環境で育ち、それぞれがあるから、
僕の思い通りにものを感じてくれるわけじゃない。
僕の歌に何も感じない人だっているし、こういう歌嫌いって人がいたって全然いい。
     
   
でも、いつか、共通する意識を持てた時、そのタイミングで聴いてもらえた時、
喜んでもらえたらって、その期待はずっと持ってる。

その上で、

誰かに伝えようとするんじゃなくて、
ただ、語り続ける、歌い続ける。
         
伝わるか、伝わらないか、はまず、おいといていい。
伝え続ける事、それだけ、そこだけ、諦めない。
   
   

     
リッキーさんの晩年を知っている人は多分わかってもらえると思う。
決して生きることを諦めなかった。
人間の一番大事なこと、を諦めなかった。
        

  
あの時、僕に言ったことは、それから何年かして、自分の命をもって見せてくれたな、って思う。
でも、それを、僕に押し付けることは一度もなかった。
ほんとうにほんとうに苦しい事がいっぱいあったはずだ。
僕には、最後まで、かっこいい兄貴でいてやる、って思ってくれたのかもしれない。
僕に弱音を吐くことはなかった。

正直に言えば、それは、少し寂しいことでもある。
    
でも、僕にもこいつにだけは弱音は吐けない、って思うやつがいる。

僕は、それだけ、リッキーさんにある友人のカテゴリーというか、
ある一つの対象として、
もっとも近いところにいる事ができた人間なんだろうと思う。
   


     

         
    
若いミュージシャンの人に、
どうやったら、心が伝わる歌になりますか、って聞かれる事が多いのです。
     
僕は、そんな事考えない。
練習あるのみ。 技術を磨くのみ。
人がどうとるか、を考えるより、
ただ自分の思うレベルに少しでも近づく事だけが目標。
      

   
歌は、歌の時点で、内包する景色も感情も出来上がってるもので、ステージで歌うのに、そこにむやみに心なんか込めない。
  
悲しい、歌を、ステージ上で、悲しいと思って歌わない。
愛しているという言葉を、愛してるよー、と思って歌わない。
形、を再生する事にこだわってる。
それによってだけ、悲しみも愛も、ほんとうに乗っかっていくもんだと思ってる。
   
    
練習のとき、この「空は」という言葉が、ちゃんと「空」として伝わるのには、どう歌うのがいいのか、
「伝えよう」という言葉を、どう歌えば「伝えよう」という歌詞の心が伝わる歌い方になるのか、
発音の形から、イントネーションから、何度試して、何度もやり直して、自分の一番しっくりした形を作る。
それを何パターンも持っているようにひたすら練習する。
練習で心震えて涙がでるくらい、歌の形を作り上げる。
     
ステージでは、それをできるだけ忠実に再生する事に徹するだけだ。 
もしかすると、ステージで歌う、って言うのは「演技」の一種なのかもしれない。 
        
 

    
僕は、僕自身が書いた歌を、全て信じているわけじゃない。
信じられずに書いている事もたくさんある。
そうでありたい、という思いで書いて、
僕はそうなんだ、と信じようとして歌ってる。

それが、誰かに、自分もそうありたい、と思ってもらえれば、と思ってる。
 

     
「伝わるか伝わらないかでは無く 

  伝える事を諦めない事を伝えよう」
     

僕にとっては、リッキーさんが「覚悟」という事の意味を教えてくれたこと、
それを、この2行に凝縮したものです。

   
誰が、どんな意味にとってもらってもいい。
歌は、作者にとっての歌でもあるけれど、
聴き手にとっての、その人の心にあるものになれれば、それが一番嬉しい事です。

  

 

 

 

 

 

あ、、

英語タイトル、

「Ricky of Tenmonkan」
  
英語おかしくない?って思う人がたぶん出てくると思う。
僕も実はこれ、よくわかんない。
   
例えば、桶川のサミイ、っていうのに、
Sammy of Okegawa っていうかな??ってよくわかんない。
正しくはたぶん、of じゃなくて、from なんじゃないかな・・・
          
だから、言われる前にここに書いておく。
   
これで、いいんです。
これにも実は、くだらないけど、訳があるの。
ばっかだなー、、、って感じの訳がある。