明日で、2021年が終わる。   
それだけでも不思議な感じがするのです。

   

    
ふと振り返ると2000年が、ずっとずっと昔だ。
2000年を迎える1999年の大晦日、
ゴールドコースト、の中心部、シェブロンアイランドの小さなマンションのベランダで、
年越しそばを作り、隣のベランダでやはりパーティーしてるお隣さんに、日本の文化、年越しそばを説明して、おすそ分けした、1999年のあの夜から、もう21年間も経っている。
翌年に夢だったオーストラリアの永住権を獲得するための申請を控え、全てが順調だったあの頃、日本に帰るなんて考えたこともなかった。だって、いよいよ永住権、って燃えている時だもの。
    

 
そして当然、世の中が、疫病でこんな風に生活を制限される未来が来るなんて、
そんなものは、SF映画と医療が発達していなかった遠い昔の世界、でしかなかった。
世の中ってのはいろんな事が起こるから、面白い。
コロナで、人が亡くなっている。
面白いなんて言い方はよくないのかもしれないが、もう、僕はそういううわべで繕うこの国のコンプライアンスはうんざりだ。
    

   
交通事故で死ぬ人はいるが、僕はドライブが好きだ。
 

     

    
オーストラリアで永住権をとって生きる、
人生で初めて本気で取り組んだ目標だった。
10年かかった。
永住権を取るために必要なこと、徹底的に調べ上げて、
あえて、今まで誰も取ったことのない、本来永住権交付の条件にはない職種での申請を「戦略」として目指した。
そのために、時間をかける覚悟をした。
      
  

そしたら、その10年は目標に向かって生きてる楽しさで、
毎日にハリがあって、楽しかった。
永住権は必ず取れるもんじゃない。10年かけてダメかもしれないって事もいつもわかってた。
わかってるから、もう考えない事にした。
失敗するときは失敗する、その時がっかりすればいい。
それまでは、必ずできると信じきる。
      

ただ、あの大晦日、僕は翌年の永住権申請を控えて、
正直、「俺がとれないなら誰も取れない」くらいの勢いで信じていた。
 
  
「22歳から大事な10年間をかけて、
 もし仮にだめだったとしても、
 10年間楽しかったことは変わらないだろう。
 ひとつも無駄にならなかった、と思うだろう。」

と思ってた。
そして、申請から3ヶ月。
今まで誰も取ったことのない、本来永住権交付の条件にはないカテゴリーでありながら、
いや、もしかしたら、だからこそ僕の戦略がきっちり功をそうしてかもしれない、
異例とも言える早さで永住権は交付された。
   
ちなみに、永住権申請を当初は「移民エージェント」などと言われるタイプの「その道のプロ」に依頼するつもりで相談した。
地元では有名だった日本人エージェントだ。
相談に行くと、僕の持つ資格を調べもせずに「前例がないのでそれでは無理です」とにべもなく却下された。
「どうしよう・・・」なんて、1ミリ思わなかった。 
僕が思ったのただ、
「この人は、能力のない上っ面だけのエセだ」
それだけだった。
 
で、現地の弁護士にお願いすると彼には「大丈夫、これなら食いつくはずだ」と言われ、
その日本人エージェントが通常このくらい、って巷で言われていた料金よりはるかに安く(ちなみ1500ドル、まあ、イメージ15万円って感じだね)にはるかに短期間でで永住権を取得した。 
そのエージェントが悪いと言ってるんじゃない、プロだからわからない事って、ある。
それに、その仕事は失敗するとキャリアに傷がつく。
もともと「大金もって移住してくる系と会社起こす系」の人しか対応しない方針だったんだろう。
そして、相手がプロであろうと、自分の人生の大事な事は、納得いかない意見で左右されてはいけないと僕は思う。
まあ、調べもせずに、「つまりこういう資格ですよね、前例ないですね、無理ですね」
って答えはプロがやる事じゃねえと思うけどね。
僕が頼んだオーストラリア人の弁護士は、15万円で本当にいいんですか?くらい真剣な仕事をしてくれたしね。
     
  
僕の行動原則は基本的にそこにあるように思う。


「調べる」「整理する」「予測する」「賭ける」

そして「信じる」


信じる
自分を信じる
        
を、勘違いしている場合が多いように思う。
    
調、整、測、の情報のあと、
大切なものを代償にする覚悟をするという意味で、賭、という選択があり、
そして、「信」 だ。

      

情報、と、選択 無くして、信じる心など、あり得ない、または、
まやかしだ。



などと、、昨日の夜おもったのよ。
なんでかな、、、

今年、、いろいろ変化が大きかったからかな。