「ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」
   東京都美術館

本日最終日なので、今更、な投稿なんだけど。
   

      
アナログレコードの制作完了後も、何かと用事続きで、なかなか行けず、
そろそろ行かないと終わってしまう、と思ったところでぎっくり腰。
     
もう、無理だな、、、と半ば諦めていたのけど、
どうしても観たい、と、なんだかもうこれ観られなかったら、
一生観られないって思ってしまって、、、昨日、行ってきました。
       

       

          
素晴らしかった。
なんというか、、、心の中にあったモヤモヤしたもの、
すごい吹っ切れた。
  
      

「ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」
全体に関しては、他にたくさんの方が書いていらっしゃるし、

僕は、わがままに「絵一点」にしぼります。
     

     

       
「サンレミの療養院の庭」


     
精神を病み、自らの耳を切り、アルルの街で精神異常者として病院に収容されたあと、
アルルから程近いサン・レミという街の療養所に移る。
そこで、病状も改善し、外ににでて、
庭で絵を描くことも許可されるようになって描いた絵。
       

   
これが観たかったのです。

 

             
僕の勝手な憶測だけれども、何かこう、ゴッホは、画家になる決意をする前、
宣教師として失格の烙印を押されて以降、ずっと、なにかと闘っていたように思うんですね。

   

    
それは、まあ、簡単に言ってしまえば、精神を病んだ人、と言う事だけれども、
そして、一般的な社会人として考えれば、やっぱり、ダメな人、なんだろうけど、     

ゴッホとしては、ただただ美しいものを観て触れて、
自分の美意識を絵に落とし込む事に、命かけてて、
それはもう常識とかどうでもいいほど命かけてて、
結果、いつも不遇であると感じているところがあって、
そんな事だって娼館通いなんかしてるわけだから、わがままなんですけど、
       
でも、、モーレツにずるい言い方すると、
そんな風に欲望に正直でないと、美術だの、やってけないと思うの。
    

   
で、、世間でキ○ガイ扱いされるようになり、精神病院に行って、
隔離されて、、

疲れたんだと思うんだよね。
疲れて、もう、穏やかに生きたい、って思ったんじゃないかと。
  
     
そして、自ら療養員に行くことを望み、
        
「ここでやっと、心穏やかに描いたのがこの絵なのだ」
     
と、僕は勝手に想像していたわけです。
あくまでもそれは僕にとってのゴッホをモデルにした物語でしかないけど。
        

   
      
この絵について、弟、テオに送った手紙の言葉、
    
「庭で描いた僕の絵を受け取ったら、
 僕がここでさほど塞(ふさ)ぎ込んでいるわけではないことが、
 君にも伝わるだろう」
   
原文じゃないし、原文読めないし、でも、この言葉からすると、
もっと、アグレッシブに、
「よーし、また、やるぞー、描くぞー」的な、
呑気なテンションあげあげ感もないでもないのだけど、
             
その後1年半ほどで、自殺(とされている)に向かう経緯を考えれば、
僕は、この絵が、束の間の安息だったのだろうと感じるのです。
         
    

   
実物を、やっと観られた。
長い事、観たいと思っていた絵。
  

  
とても、有名な絵なのに、どういうわけか、昨日、僕がこの絵まで来た時、
ほとんど人が周りを囲んでいなかった。
全ての絵、それこそ、今回はゴッホ以外にも、ルノアール、スーラ、ルドン、など、あって、
どれもそれなりに人の隙間を狙ってやっとゆっくり観られる、っていう状態だったのだけど、、
  
この絵にはあまり人垣ができていなかった。
だから、もうずっとこの絵ばっかり、ずっと観てた。
1メートルの距離で、2メートル離れて、
そうやって、いつまでもこればっかり観てた。



アナログレコード、もうすぐ発売です。
12月16日販売開始。
    

    
制作に関して、ほんとうにそれでよかったのか、、、
と思う事、いろいろある。

売り物、だから、一般に寄せないと、いけないのではないか、
なんて気持ちだってある。
  
一方で、売り物であると同時に、作品だから、
僕はこうしたい、ってのもある。
   

   
どこがどう、、って詳細を今話すと、なんだかそういう部分で聴かれるのも嫌だから言わないけど、
一般的には、これではダメじゃないか? って言うのをあえてそうした部分とかあったりする。
それは、
     

    
普通には、
こうした方がきれいでしょ、
こうした方が聴きやすいでしょ、
こうした方が全体が馴染むでしょ、
  

みたいな、常識、を無視どころか、むしろ「逆張りした」感もあったりする。
でも、そこには「僕はそっちの方がいいと思う」ってのがある。


なんだか、わかんない事言ってますよね。
しかも、きっと、聴く人からしたら、
「そう言われればそうかな・・」くらいの事なんだろうと思う。
    
それでも、結局のところ、僕らミュージシャンって、
人が聴いてどう思うか、で生かされているところがあって、
みんなが普通はそうするけど、を外して外れて、作った事に、
発売が近づくにつれて、やっぱり不安に思う気持ちが大きいです。
 
ほんとにそれでよかったのか??
って。
これは、前作、5月に出したCDの時にも思った事だし、
いっつも思うんだけど。

ただ、僕は単純な人間なので、
これで、いい。

って、ゴッホ展みて、サクっと思ったのですね。
売れるとか、売れないとか、僕が決められるもんでもないな、と、
もう、作っちゃったし。僕がいいと思うように作ったんだから、
それはもう、それでいい。
     
    
   

          

「ゴッホの絵は、生涯で1枚しか売れなかった」
  
なんて逸話があるけれど、あれは嘘だそうで、もちょっと売れてたらしい。
それに、、ゴッホが死去したのは1890年、弟テオが資金援助を始めたのが、1880年。
画家としてがんばるから! って、弟に援助を求めて10年後、37歳の歳に死んでるわけです。
もし、僕の歳、55歳まで、つまりまだ後18年生きて画家として生活していたら、どうなってたか、ってのはあるよね。
45歳くらいには、絵が売れまくって巨匠になってたかもしれないもんね。


そんな事はどうでも、、、、
      

   
ゴッホの絵、やっぱり異端だと思うのです。
売れるために、って考えて絵を描いた事はあるんだろうか。
そう言う絵が描ける器用さはないように思うけれど、
  
「売れるために、売れるような絵を」

を考えた事はあるんだろうか、って思うことがある。
そうではなかったと思いたいな、って。

ただただ、徹底的に自分の思ったもの、信念に従ったものだけを描いていた、
と、勝手に決めつけていいか、って思ってます。