これは、少し懸念していたことではあるのだけれど、
やはり、一度、鬱についての、投稿をだして、それが結構なアクセスになって、
しかも、いずれは語りたい、って言っちゃったのもあって、
   


鬱についてのこと、
どう克服してきたのか、
   

   
を聞きたい、というメッセージをいただきます。

 

   
いっぱいではないけれど、そういうメッセージってやっぱり切実だから
なにか、こう、ないがしろにできないというか、、そんなのもあって、
少しずつでも、時々語っていこうかと思います。

     

鬱、というのは、そうそう簡単に人生から無くなってくれるものではなかったりするのですね。
完全になくなるって、たぶん、
   
「もういいです、もう、いつ死んでもアタイは幸せです」
    
みたいな境地に達しないかぎり、そうなる事はないんだろうと思います。
   
  
とは言え、今、僕は、
もう克服した、と言ってもいい状態だと思ってる。
鬱も、PTSDも。
        

   
      
薬を飲むこともないし、
電車の中で突然、原因がわかららない不安に襲われることもない。
なんにもしていないのに、高層ビルの屋上に立たされているような恐怖に駆られる事ももうないし、
顔の皮膚と肉の間に、ピリピリと無数すごく小さな虫が這い回っているような感覚に襲われることもほとんどない。
           

         

   
それでも、朝、起きたときに、漠然と、
       

  
なにか忘れてはいけない大事な事、
例えば火を消し忘れて出かけてしまって、もう2時間立っているような感覚とか、
     
何を間違っているんだろう、
どうすればいいんだろう、
今、大変な緊急の問題が起こっているかのような、

  
モーレツな不安に襲われることが頻繁にあります。
    

  
どうすれば?も、何が?も、
そもそもその原因がどこにあるのか特定できない、
わからない、ってのが、
厄介なとこなんですね。
    
   

  
       
これは、今、やっているような音楽制作中にたいてい起こることです。
おそらく、何かしらの脳内をめぐる回路の特性とでも言おうか、
そう言うものが、鬱であった時代のバイブレーションに近いものを持っていて、
共振するのではないか、と思うのです。
     

      
こう言う不安が起こったとき、、治し方は簡単です。
ガバッと起きて、、でかい声出す。
           

いちいち、どうでもいいことを大きな声で、
まるでやっすい映画やしょぼいドラマで
「そんな事、普通、口に出していいますかねぇ・・」
みたいな事、、
     
「あー、とりあえずコーヒー飲むかなぁ、、」とか、
「あれ?? 今日、何曜日だったけ?」とか、
「俺、今日なんか外に用事ある日だったっけ??」とか、
「歯、みがくかぁ、、、」とか・・

大きな声で無駄に元気よく言ってみる。

  
そんだけ、
    
これで、、
コーヒー飲む頃には忘れてます。
これも、一つ、テクニック的なものであって、訓練が必要だと思う。
    
だから、克服する、という意識よりも、
共存する、そのためのテクニックを磨くという意識は大事なのではないかな、って思う。
    

         
            
僕は、学術的な事や、精神医学、心療内科的な知識は、ありません。
指示を受けたりもしたけれど、
納得のいかない事が多かったし、たくさん本を読んでも、
うーん、そう言う事じゃないと思う、って思うことばかりだった。

      
ただ、それも、その時代、精神的に、今よりずっと
   
「病んでいたからだ」
     
という考え方もあるわけです。
受け入れられない事が多かったのではないか、、って思うのです。

   

     
でね、、
   
ここで、一つ、すごく重要なワードが出てきている。
       

   
「受け入れられない事が多かった」
       

 
これなんです。
僕は、その当時、何かに固執したり、執着したり、が、
すごくキツかったように僕は思うんです。

 

    
さっき書いた「とりあえずでかい声出してみる」なんか、
じゃあ、僕の言ったこれ、実践してみもしないで、
   
    
受け入れられない、そう言う事じゃない
    

  
と思ったら、もう、このテクニックは絶対に使えない。
       

    
  
いろんな意味で、自分が固執している常識とか、
善悪とか、損得とか、
そう言うものを、

まあ、どうでもいいや、

って思えるようになること、ってすごい大事だと思うんですね。




僕が、最初に、これに気づいた、というか、

     
これだったんじゃないか、
僕が、おかしくなって行った原因は、
こういう事だったんじゃないか、、
って、思ったのは、
         

     
オーストラリアにいた時代、
誰かがたまたま、あくまでも、マンガ、として貸してくれた、
   

     
「ブッタとシッタカブッタ」
というコミックでした。




ブッタ、というくらいで、仏陀の教えがどうこう、、
なんだろうけれど、、
   

       
正直そこはどうでもいい。

僕は、偉人の名言、というのが実はあんまり好きでなくて、
ああ言うの聞くと、大抵のばあいは、
    

    
つまり、誰でも言いそうな事をうまい表現で
なるほどー、って思わせてるだけか、
極論かの、どっちかだよね。
  

〜名言とは、

 特異な表現で語った普通の事か、

 思い込みと、勢いによる極論、のどちらかである〜

           ユウサミイ
    

    
って思うタイプの人間です。



でも、この本に出てくる言葉は、
豚の絵で語られるからなのか、、、、

そうだよね、、どうでもいいよね、

って素直に思えた。
いろんな事、そうだよね、そうだよね、
っていっぱい思った。

こんな、
絵で描かれながら、

なぜか忘れてしまっている、
わかっているはずの簡単な事、
  
いろいろあって、
夢中で読んだ。
何度も何度も読んでいるうちに、
なんだか泣けてきて、、
どこかで、自分の心凝り固まっていたものが、
ほぐれていくように思ったし、

漠然と、原因のわからない不安を抱えているときに、
すがるようにこの本を読んだ。
   
そして、日本にくるようになって、
もう、僕はこの本はみない、って決めた。
もう、この本に助けてもらう必要はない、って思った。


ひとつ、他のエピソードとは少し毛色がちがうけれど、、、
     

  
今の、日本に一番重要ではないかと思う事、
を語っている四コマがたまたまネットに載っていたので、
勝手ながら、拝借させてもらう。
   

        
問題がある場合、すぐ削除しますのでお知らせください。
でも、僕、この本、
今を超えたい人に、読んで欲しい。

このエピソードは結構衝撃だった
僕は、いっぱい間違っている、
僕の中に、こういう
「馬のようなもの」
がいっぱいいる、と思った。





「ブッタとシッタカブッタ」

3巻まで、あります。
他にも
   
「ブッタとシッタカブッタ」シリーズ

はいっぱいある。

でも、僕はこの三つしかしらないs、
この三つだけでいいと思う。


何十冊も、本を読んだ。
  
藁をもすがる、
と言うのはこう言う事じゃないかと思う、
ってくらい、鬱を克服するための本を読んだ。
    

   
今、本当に役にたったと思うのは、
この、ブッタとシッタカブッタ3冊、と、
不思議なほど、タイトルも著者も装丁も思い出せない、
お坊さんの書いた、肌に触れる物の感覚に神経を配る、という内容を書いている本。
  
たった4冊だった。
   
  

     
この4つを、何十回、いや、百回は軽く超えているだろう、
繰り返し繰り返し読んだ。
    
今でも心に染み付いた哲学になってる。
     

 

 

 


2巻もあります。

 

 


実は、3巻まであります