自分のやっている事は、間違っているんじゃないか・・・
って思うことがある。
今、アルバムの完成が近づいて、データを入稿して製品になったら、
もう、そのアルバムは修正できないものなんですね。
この後の僕の人生の中で、僕の創作物、としてずっと残っていく。
極端な話、僕が死んでも、買った誰かの部屋にずっと残っていく。
制作している間、って、ただただ自分がイメージするものに近づけていく
という作業であって、いきなり思った通りになる部分もあれば、
小さな失敗を繰り返して、やっと納得のいく状態にたどりつく事もあれば、
どこかで妥協しておさめたり、たくさんの遠回りをして完成にすこしずつ近づいていく。
僕の場合、あくまでも全てを決めているのが自分一人で、
たくさんの利権がかかわるプロジェクトではない。
期限だって、自分の勝手、そう言う意味では極めて気楽な仕事なのかもしれない。
評判もプライドも、すべて一人で背負うことになるのだから、
「僕がいい、と思うからいいんです
つまんない音楽、と思った人、すいません」
で、対外的にはおさまる話なのだから、気楽といえば気楽です。
それでも、完成に近づく、と言うのは、
実際に、人の評価に晒されることになる時が近づく
という事で、
制作に必死になっている間ってのは、わりと気にならない事なのだけど、
だんだん、それが、恐怖になってくるんです。
もともと、とても気弱な人間です。
人に嫌われたくないし、自分も傷つきたくない。
特別な人間と思われたい、なんて、すごく俗物な考えも満載で持ってる。
だからこそ「俺は俺、人は人」なんて言葉だって出てくる。
自分でいいと思っている事が、人にいいと思ってもらえないってのは
やっぱり悲しい事なのです。
音楽なんて、極端な話、ビートルズが嫌いな人もいれば、
僕が大尊敬するユーミンの歌が苦手な人もいる。
僕が苦手だと思う音楽も流行るし、
ヘビメタと演歌はみんな同じに聴こえる人もいる。
大好きな映画が、Amazonプライムで星2つだったりもする。
人の嗜好、受け取り方は、人それぞれ、
わかっては、いる。
わかっていても、うじうじと、考えてどうなるもんでもない事を、
考えないまでも、感じてしまうものです。
考える、は「行為」であり、
感じる、は「感情」であり、
当然ながら、感情、の方が強いのです。
そうやって、自分がいいと思ってやってきた事、
僕にとっての正解だ、と思ってやってきた事、
を、間違いだったのではないか、、、
さらには、
これでいい、これが正解、
と、思いたかっただけなのではないか?
なんて事を考え始める。
めんどくさいでしょ?
ミュージシャンがみんなそう、ってわけじゃない、とは思うけど、
多かれ少なかれ、そういう部分はみんなにあるんじゃないかなぁ、
それも、そう思いたいだけなのかもしれないけど。
思えば、試行錯誤、の塊のようにできあがった前作、
このブログのタイトルにもなっていますが、、
世界中でたったひとりの
ひとり分の宇宙
結果として、
いろんな奇跡をおこし、今の僕をずっと支えてくれたこのアルバム。
完成した時も、これ以上やったら気が狂う、と思って、
たくさんの「妥協」の中で、完成した、のではなく、
完成に、した。
というのが、本音だった。
自分で、絶対にいいアルバムだと思いながら、なのにです。
そして、売り出した時も、
「これが今自分のできる最大限だ」
という思いが、心の支え、というか、そう思い込まないと
やっていけないような心持ちだったのを、よく覚えています。
だから、なんとも無責任ではあるけれど、完成して、数年間、
自分で聴く事はなかった。
数年後に、改めて、聴いたときに、
恥ずかしながら、涙が止まらなくなって、
あの時にもどって、あの時の自分に言ってやりたい、って思った。
「大丈夫、心配するな、ほんとうによくできてる、
いいアルバムだ。」
そもそも間違いってなんだろう。
そもそも間違いってあるんだろうか。
誰にも正解がわからない事ってある。
自分のいく道、なんか、それこそ誰にも正解はわからない。
間違い、と思うなら、間違いだとのちに思った、という結果があるだけで、
それが、そのまた数年後に、いややっぱり正解だったって事もある。
You are allowed to be wrong.
ここ最近、頭休めにみたドラマで、すごく心に刺さった言葉です。
間違うことは、許されている。
そこまで、一回、しっかりネガティブにかつ冷静に考えてみると、結構心って落ち着くもんです。
自分の能力を信じて、怠けることなく、傲ることなく、
朝から晩までやっていたこと。
ただ、やりたい、という気持ちだけでやってきた事。
その間、幸せだったわけです。
54歳にもなって、誰に強制されるでもなく、ただ、やりたい、だけの事を、
2ヶ月以上も、引き篭もってやれる、なんて、
そんな幸せな事、なかなかないんじゃないかな。
その時点で、
間違いも、なにも、どうでもいいんじゃないか、、
なんて、思ったりできるようになります。
気に入る、気に入らない、は、人が決める事。
僕に操作できることじゃない。
自分は自分、人は人
ここまできて、やっと本心になってくる。
犀(サイ)の角のようにただ独り歩め
好きな言葉です。
意味はよくわかりません。
最古の仏教教典の一つとされるスッタニパータという教典の中の言葉です。
「サイの頭部にそそり立つ太い一本角のように、独りで自らの歩みを進めなさい」という意味
(インドサイは、ツノ1本です)
と説明しているむきもあるけれど、
実際のところ、お釈迦様がこれによってなにを言いたかったのかはわかりません。
パーリ語、という、サンスクリット語の方言の一部で、実際のところどの地方の方言だったのかすらもわかっていない言葉でかかれていたものですから、正確に本意を訳すのは極めて難しいだろうとおもいます。
ただ、すべてをこの言葉で締めくくる40もの詩でできあがっている「蛇の章、三、犀の角の節」といくくりの中にあり、その40もの詩文脈を辿れば、おそらくは、前述の意味の説明は、おおよそ正しいものと考えていいのではないかな、って思います。
間違っているかもしれない、、
と思うとき、いつも、僕の最後の砦は、
犀の角のようにただ独り歩め
です。