今回は「広島原爆を知る」その13です。

 

人の頭の上に故意に原爆を落とされた国は、私たちが住む日本だけです。

 

原爆については、修学旅行で触れたことがあるくらいで、それ以上とくに知ろうとしてきませんでした。でも、自分が知ろうと思えば知ることができる、という、当たり前のことを想うと、日本人としてちゃんと知りたいと思い、撮影旅をすることにしました。

 

撮影は2019年ですが、

今の解釈で現像しています。

 

 

今回の写真は5枚です。

 

よろしければ写真での旅を

ご一緒いただけたら嬉しいです。

 

 

 

 

 

『原爆死没者慰霊碑への道』

1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、リトルボーイと名付けられた原子爆弾が、この写真の右手あたりに落とされました。アメリカは原爆によって広島を否定しましたが、ここ平和記念公園は誰が来ても否定することなく、ただただ受け入れてくれます。原爆死没者慰霊碑へと続くこの道も、誰に対しても開かれた道です。

 

リトルボーイは、小さいから「ちび」を意味するこの名がつけられたそうです。でも、広島に落ちたことを見れば、決して小さくないことが証明されました。

 

 

『平和記念資料館本館の工事』

広島に行き、平和記念資料館に来てみると、本館が耐震工事&リニューアル(改装)工事中でした。最初は「なんだよ~、本館見られないのか...悲」と思っていのたですが、この工事中を撮影できることは今後ないかもしれないと思い直して撮影しました。

私が行ったとき(2019年3月)は、写真左の方にある東館から本館への渡り廊下と、北側から見て左半分くらいが工事中のカバーで覆われていました。当時撮影したのは、この2枚だけでした。今思えば、また同じような風景は撮れないのだから、もっと撮っておけばよかったです。

 

ちなみに、広島平和祈念資料館の本館は、1955(昭和30)年8月6日に竣工しました。開館は同年8月24日です。当時は「広島平和祈念館」という名前でした。1994(平成6)年5月に東館が竣工するのに合わせて、名前を現在の広島平和記念資料館と変更しました。

 

その後、2006(平成18)年7月5日に戦後建築物では初めて国の重要文化財に指定されました。

 

工事が終わってリニューアルオープンしたのが2019(平成31)年4月25日でした。ちょうど私が行ったおよそ一か月後です。間に合った感じです。

 

 

『被爆した墓石』

平和記念公園の中には「被爆した墓石」が被爆当時そのままに保存されてます。アメリカ軍によって原爆が落とされる前は、このあたりは慈仙寺(じせんじ)という大きなお寺がありました。

 

平和記念資料館によれば、原爆が爆発したとき、このお寺の住職他2名は清掃中に即死、浴室で洗濯中の妻も重症を負い、翌日に亡くなりました。慈仙寺内にあった中島国民学校の分教場に通学した低学年の児童十数人も、原爆で即死でした。

 

慈仙寺にあった墓も原爆にやられました。その中でこの墓石だけは移動されずに、ここに保存されています。段差があるのは、平和記念公園をつくるときに盛り土されたからです。つまり、この段差の内側は、被爆当時の地面そのままです。

この墓石は爆心地から270mの地点にあります。広島藩浅野家年寄の岡本宮内(おかもとくない)のものです。

 

もともとの形状は台座つきの五輪塔です。24枚の花弁で飾った台座の上に「地」の石があります。その上に「水」「火」「風・空」がありました。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日もお読みいただき、

ありがとうございます。

 

プロコーチ11年目、常楽でした。

 

 

 

 

 

 

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