yurumin's walk

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娘と私の成長日記

母が、娘(私)や孫(娘)の心配をしています。

 

生活は

学校は

勉強は

 

心配したところでどうなるのでしょう?

 

どれだけ心配しようが

環境・状況は変わらない。

 

心配したら生活が豊かになるのか?

心配したら勉強ができるようになるのか?

心配したら友達ができるのか?

 

実際

娘は文句を言いつつも新生活に馴染みつつあるし

勉強も心配されるようなことはありません。

(私は問題ありですが)

 

具体的な支援をしてくれるなら分かるけど

心配だけされたってどうにもならない。

何も変わらないし変えられない。

 

「心配している」と伝えられたところで

心配されている側ができることは?

 

かえって負担になる。

 

心配するなら心の中だけで結構です。

 

具体的な実際の行動をする気がないのなら。

 

「支援の申し出をすれば受け入れるよ」というメッセージなのでしょうか。

ならそう言って欲しい。

 

「困ったことがあったら相談してね」

なら分かる。

 

「心配してる」という言葉を聞いて嬉しくはならない。

 

で?

じゃあ何してくれるの?

 

と思ってしまう。

 

事情を聞いて状況を把握しておきたい

だけなら「心配」とは言わない。

「詮索」だ。

自分の好奇心を満たしたいだけ。

 

心配してるだけで何もする気がないなら

「心配してる」と言わないで欲しい。

不毛だから。

 

夜、帰宅すると

ベッドに寝そべっていた娘。

今日は1日どこにも行かなかったらしい。

「見る?」

おもむろに起き上がり、窓辺でゴソゴソ。

最近は「見て~」から「見る?」になってきた娘。

カーテンの周りが光り始めました。

「暇だからつけてみた」

窓枠に細いコード状のライトをメンディングテープで留めて這わせていました。

カーテン脇と上の隙間から明かりがほんのりとこぼれ

「昼間みたい(日中みたい)」と言うと

「褒めてる?」

と娘。

「部屋、広く見える?」

「ホテルみたい?」

と遠くから見たり、写真を撮ったりして出来栄えを確認する娘。

職人魂を感じます。

 

※このようにゆったり過ごしていた娘ですが

後日、登校前日の夜、大量の課題があると言い出し

夜中に取り組み始め、朝もギリギリの時間テキストを広げ、登校中の車内でも課題に追われていました。

 

暇じゃなかった。

 

娘にとって、学校・SNSは社交界。

「顔面偏差値」で競い合い、優劣がつけられる。

 

 

他人の評価で立ち位置が決まる。

自分以外は全員他人の集合である「社会」にいる以上

それは当然のことなのかもしれません。

 

ただ、その他人も「自分」という個々のフィルターを通して判断している。

 

自分を通して社会を認識しているのはみんな同じ。

 

結局、主観、好き嫌いでしかない。

 

究極

 

好かれたらどんな見た目でも言動でも受け入れられるし

 

嫌われたら(拒絶されたら)どんな見た目でもどんな善行でも認められない。

 

ずば抜けた存在は好き嫌いを超越して、誰もが認めざるを得ない。

でも、それはごく少数。

 

ほとんどは「好き嫌い」でジャッジされる。

そして、他の人も「いいね」してるか。

誰も「いいね」してないものに自分一人が「いいね」できる?

 

大道芸で、帽子にお金をいくらか入れておけば投げ銭しやすくなるように。

 

「自分しか分からない価値」を尊ばない人たちの中で生きていくには、その人たちが好むような「何か」を持たなければいけない。

 

推しているのがバレたら恥。

「好き」と公言できないものを推したくない気持ち。

 

誰もが認める「公式」を推す安心感。

 

「何それ」

「きもい」

と言われるものは選ばない。

 

多勢から外れる=社会腐適合者だから

ひとりVS大勢

は怖いから

 

安心を求める。

誰もが認めるブランドを。

 

みんな同じ顔同じ服装同じ髪型

限られたバリエーションの組み合わせ。

 

笑われたくない、恥をかきたくないから。

 

プロフィールに載せて恥ずかしくないものだけ推す。

 

思考、嗜好が全て可視化されると

「本当の望み」なんて分からないだろう。

 

見られて恥ずかしくない見た目、趣味、嗜好。

仮面をかぶり続ける少年少女たち。

学校、SNSは仮面舞踏会。

 

絶えず「他人の目」を気にし続ける。

国民総有名人社会。

 

大変ですね。