ニ千年前と同じ? | ペッカプのブログ

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イエス様が3年半歩まれた公生涯路程と、お父様が歩まれた3年があまりにもよく似ています。十二支派の編成や韓国の政権に家庭堂を立ててトンパン撃破をされようとしました。南北統一を視野にいれて十二支派を基盤にして世界に出ていくはずでしたが、イエス様の時とおなじようになりました。ニ千年前は、ユダヤ教の不信がイエス様を十字架に掛けて統一された一つの世界を築くことができませんでした。

イスラエル民族が待ちわびたメシヤはきましたが、イスラエル民族はそのメシヤがわかりませんでした。なぜ仕えることができなかったのでしょうか?簡単なのです。メシアのみ旨は世界を救い、人類を救うところにありました。そして、そのイスラエル民族を選んでたてたのは、イスラエル民族のゆえに選んで立てたのではありませんでした。統一教会を選ばれたのも統一教会のために選ばれたのではないのです。文先生が統一教会の責任者であっても、統一教会を立てた文先生のために選ばれたのではないのです。神様と世界の為にお選びになったのです。

こうして、イスラエル民族の願いと神様とメシヤの願い、み旨の方向がくいちがいました。神様とメシヤのみ旨は、世界を救い、人類を救い、歴史を正すためのものであるにかかわらず、イスラエル民族は自分の国のためにいき、選民の歴史のためのものであると思いました。しかし、メシヤを見ると、そのように見えないのです。ですから、ここで衝突がおきました。イスラエル民族は選民として世界を支配できる祝福を受けたにもかかわらず、神様とメシヤの目的観で衝突することによって、み旨に従って行くべき目標のところは残り、み旨を奉じて目標を受け継ぐべきイスラエル民族はここで堕落して世界にない罰を受けるようになったのです。それゆえニ千年間国のナイ民族として流浪の孤客となったのです。

これは恐ろしいことですが、今の韓国にもあてはまりませんか?最近の混乱した政局や様々な事件がたくさん起きていますが、いやな動向をかんじます。運勢がなくなっているようにも感じます。悔い改めはあるのでしょうか?間違ってもメシヤは死ぬために来ましたとは言わないでください。ニ千年前と同じですから!