近年、私が過ごす日常スペインでも、母国日本でも、性犯罪・性暴力のニュースが後を絶たない。

教会聖職者による男児への性暴力、寺の僧侶による尼増への性暴力、スポーツ界における性犯罪、職場、学校、芸能界など、私たちの日常生活のあらゆる場面において、こうした犯罪は起こる。

「この社会に生きるいち市民として、私たちにできることは何なのか?」 性暴力について、ここでいま一度、中庸な心で考えてみたい。

まず、こうした報道を目にしたとき「司法を信じよう」という心構えが必要だと感じる。ここでいう「信じる」は、司法制度がすべて正しいということではなく、司法制度にもおそらくミスや落ち度や誤審があるという点も考慮しながらも、しかし、被疑者逮捕は警察に、被告人訴訟は検察に、有罪無罪の判断と刑罰執行は裁判所に、お任せするしかないという心構えだ。

私は見えている世界が狭いので、思考する材料に乏しいが、スペインと日本の両国を比べたときに、司法の初動がずいぶん異なる点を興味深く観察している。

数年前のある日、見ず知らずの某スポーツクラブの会長から「君にお願いしたいことがある」と電話を受けた。

深刻な声で話す会長さんのお願いとは、「同クラブ所属の日本人選手が(A選手とする)、ある女性から『同意無き性的関係を強要された』として警察に被害届(告訴)が出されたことを受け、『性犯罪防止プロトコール』が発動、昨夜身柄を拘束され留置されている。24時間後に仮釈放となるだろうが、A選手は完全にスペイン語を理解できるわけでもなく、不安で恐怖に怯えているはず。この先、裁判になると思うので、彼のサポートをしてあげて欲しい」という内容だった。

スペインの国家警察には「UFAM」という、家庭内暴力・性犯罪・性暴力から市民を守る特別部隊が存在する。

「性犯罪防止プロトコール」は24時間体制をとっており、被害届が出た瞬間に自動的に発動されるため、その訴えが「虚偽」であるかどうかの真偽を問わず、まずなにを差し置いても先に被疑者の身柄拘束に至る。

この時身柄拘束をされたA選手の場合は、担当した警察や裁判所の方々も、当初からA選手に対して楽観的だったほど明らかな虚偽で、和解金目当ての外国人犯罪グループにはめられたケースだった。

Juicio rápido(迅速裁判)と呼ばれる、特定の犯罪を通常の裁判よりも迅速かつ効率的に解決するために実施される刑事裁判の短縮版が開かれたが、そこに当の女性は姿を現すこともなく、そもそも身元の確認さえできなかったため、それをもってこの事件はA選手が無罪であることが証明された。

しかし、練習後に自宅でのんびりしている夜に自宅にピンポンと警察がやって来て、訳もわからぬまま連行され、一夜留置所で身柄を拘束されるというのが、いまの現実だ。

仮釈放された後、私はすぐにA選手に会った。彼は初対面の私に、体験した不安と恐怖を吐露してくれた。そうして精神的にクタクタな姿を見て、大変多くのことを考えさせられた。

多くの人には理解できないだろうが、虚偽告訴なんてことをする人間がこの世に存在するということも、これまた現実だ。

一方で、スペイン検察庁が2022年に発表した報告書によると、家庭内暴力・性犯罪・性暴力における虚偽告訴は存在しないわけではないが、その割合は全体の0.01%であり、可能性はほぼ無いに等しいと決定付けている。

近年、私たち大人が行っている子どもや若者への概念形成のひとつに「YESだけがYESである」という教育がある。

例えば家庭で、もしくは学校で、「相手がYESと言わない限り性的な接触をしてはいけない」ということを徹底的に教える。

同様に、「YES以外の状況で性的接触をされた場合は、まず病院に駆け込み身体検査を受けなさい。そのあとすぐに、最寄の司法機関に被害届を出しなさい(場合によっては医療機関から直接通報される仕組みがある)」という教えがスタンダード化されつつある。

さらにそこには、「それが誰であっても」「誰からであっても」という前提が存在する。大人と子供。上司と部下。先生と生徒。コーチと選手。男性と女性。男性と男性。女性と女性。いずれであっても、だ。

またこれもスペインの例になるが、この国における女性・子どもへの暴力や性犯罪は、圧倒的に社会から厳しく罰される空気がある。これはあくまで映画やドラマで描かれる「スタンダード」に過ぎないが、性犯罪者は刑務所内で他の受刑者からリンチや性暴力を受けるのが慣習のようだ(かのように脚本の中に描かれる)。だから性犯罪者たちが最も恐れるのは、刑務所入りであるし、仮病を使って隔離されようと試みたり、独居房を申請したりする。

これは、犯罪にも聖域があるということなのだろうか。犯罪に良いも悪いもないが、それでも窃盗、強盗、暴行、収賄、殺人、またはテロリストなどといった受刑者たちが醸し出す、「対女性、対子どもへの暴力や暴行は断じて許さない!」という力強いメッセージは、映画やドラマの中で私がいつも感じることだ。

「この社会に生きるいち市民として、私たちにできることは何なのか?」


スポーツは、社会と教育の領域をまたぐ存在だ。

そして、スポーツ界に従事する私は、次世代により良い社会を継承する義務がある。


子どもに対して、正しい教育を提供してあげること。

いま私には、それくらいしか思いつかない。