<フットボールクラブへの期待>

 

私たちビジャレアルCFは「社会性の高いクラブ」として知られており、「課題解決」や「小自治体的な役割」を果たすベストプラクティスの事例になっているし、経営者、トップ・アカデミーの選手・スタッフ、フロントといった構成員みんなが、こうした社会的責任感を胸に秘め活動していると感じる。

 

しかし、例えばクラブのコミュニケーション施策において、社会的価値のある活動報告や投稿の全てでインパクト指数が爆発的に増えるかというと、そうでもない。

 

スポーツと社会を繋げても、思うほど人々に刺さらないのは何故なのか。

 

「刺さらない」とは、「興味が無い」「関心が低い」ということ。

 

人は「いま」を生きている。

 

人は、時間軸においても距離感的にも、意外と近いところしか見えていないものだ。

 

利己的と言ってしまえばそれまでだけれど、人は「半径1メートル」、つまり自分・家族・愛する者たちの「今」を生きることで、めいっぱいなのかもしれない。

 

人は、1メートル圏内の安心安全が確認できてはじめて、半径3、5、10・・と、視野を、手を、広げていけるものなのかもしれない。

 

だから、「社会」という壮大過ぎるスケールと時間・距離感でメッセージを打っても、なかなか人々には届かない、響かない、刺さらないのではないだろうか。

 

そして、私たちを応援してくれるファン・サポーターの「スタジアムに足を運ぶ」動機の源泉は、クラブに対する「社会的役割への期待」では無い。ということなのかもしれない。

 

それでは、「半径1メートル」とは何だろう。

 

<欲求の充足>

 

アスリートの活躍やスポーツチームの大躍進に心を高ぶらせ、テレビの前で釘付けになり、拳に力を入れて、前のめりで応援している自分を想像し、その時私の内面で何が起こっているのかを考察してみた。

 

① 声を張り上げ、ああだこうだ言いたい放題が許される治外法権的な空気。自己実現欲求が充足・満たされる感覚が好き。

 

② 周囲を気にせず叫びたい!大声で笑いたい!子供のように泣きたい!歓喜でジャンプしたい!感情の解放が許され、自己を表現し、承認欲求が満たされる空間が心地良い。

 

③ アイデンティティ(所属、出身地・国など)の確認、自分の輪郭が鮮明になる感じ。仲間意識が強化されパワーアップ。社会的欲求が充足される感じ。

 

④ 「あちら側」「こちら側」意識がそこにある。勝ち負け・優越がはっきりと出ると分かっている「そこ」に心情的に便乗することで、勝てば、あちら側に対して「優越感」という甘味・恍惚を感じる。ドーパミンの仕業か。

 

⑤ 私には到底できない技やパフォーマンスをやってのける「凄い人(アスリート)」に衝撃を受ける、感動を覚える。私には不可能なことを、彼らが代わって実行・実現してくれる爽快感。

 

どうやらアスリート・スポーツは、私の「未充足部分」を満たす役割を担ってくれているようだ。

 

自分自身だけでなく、私の半径1メートルの欲求充足も同様に。

 

アスリート・スポーツが応援される原点は、やっぱりこのあたりにあるのではないか。

 

なんてことを考えながら、今夜のホームゲームに臨みます。