前編では、選手の意思決定プロセスについて触れた。

後編では「環境が人を成す」という視点から、スペインという国でどのような「人間」が育ってきたのかを考えてみたい。

仲間たちとの雑談で「我々スペインでは『従う人間』を大量生産してきた」という点で合意した。

(1)家族理論:根強い家父長制における絶対的な「父」

(2)宗教的背景:カトリックにおける「神」

(3)政治体制:王政、共和制、独裁政権といった「キング・大将・独裁者」

人が生まれて初めに属する共同体は家族である。その家族の在り方が家父長制であるスペインでは、「父」による他の家族構成員を統率支配する機能をもつ。

信仰が厚いクリスチャンは、この世のすべてを「神」が創造したとする創造主を疑うことは無い。またこの世における善悪といった教えを「聖書」から学ぶ。

国家や政治体制は時代によって移り変わるものの、王であれ、陸軍大将であれ、独裁者であれ、いつもそこには権威者がいた。

支配と抑圧のもと、スペインの人々がこうした絶対的存在を前に「従う」ことを学習したのであろうことは想像に容易い。だから、人と人の関係性の構築においても「上意下達」が育まれやすい環境でもあっただろうし、教育やスポーツの現場でもこうした関係性が継承され続けてきたのだろう。

民政移管後この国は大きな変革を、また、欧州統合によって「スペイン人」という国民性までもが異なる文化圏かのごとく変容を遂げたと私は感じている。私が知る限り、いまやスペインの人々は意志を持ち、異なる意見をきちんと公言できるようになった。それらを受けとめる社会的環境も当然整ってきたと思う。

105x68の緑の中(ピッチ)は、時に社会の縮図にもなる。

権威者のように扱われ崇められた「監督」は父なのか、神なのか、君主なのか・・そのもののように振る舞い、その監督という絶対権威に従うことを学習した選手は、それを疑ったり、問うたり、抗ったりすることはない。

決定プロセスの当事者である選手の意思よりも、シュートを打つタイミングも、距離も、強度も、高さも、角度も、蹴る足の側面までも「打て!」「ボレー!」「インステップ!」「右!」といった監督の声のほうが重んじられてきた。

スペインでも、シュート練習やフィニッシュの形を想定したトレーニングは繰り返し行っている。FW専任コーチを付けたり、FWだけを集めた特別トレーニングを行ったりとFW養成に必死だ。

仲間たちとの雑談からなんとなく見えてきたことは、FWを育てるために何か特別なトレーニングを考案することで得点力不足やFW不足が解消されるのではなく、フィニッシュという状況に置かれた者が(FWに限らず)、外的要因に遮られることなく、妨げられることなく、自己決定のプロセスを本人の意思のまま遂行完了できる環境を整備することが大事なのではないか、ということだった。

「フィニッシュ」=「シュートを打つ」という決定的な状況で、成功率高く得点につながるようなパフォーマンスに「選手を近付けてあげる」ためには、彼らの意思決定プロセスを寛容に見守る環境提供こそが必要なのではないかと。

少なくとも、電波障害を受けた雑音だらけのラジオのように、選手の意思決定に迷いが生じるような指導環境であれば、きっとこれからもスペインからスーパーなFWなんてものは育たないだろう。

フィニッシュこそ、意思決定プロセスの極み。

指導者、クラブ関係者、応援に来る家族も含め、日々の練習から「フィニッシュは他者が決めないこと」という約束事を徹底してみてはどうだろう。