先日ご一緒させて頂いた対談の中で、中村憲剛さんが参加した指導者や子供たちに「とにかく声を上げ続ける事が大事」というお話しをされていた。

 

 

私たちビジャレアルCFでは、2014年の指導者のマインドリセット以降「Humanizing Football」という概念が生まれた。

 

憲剛さんが「声を上げ続けろ!」と仰ることの意味を改めて考えながら、もしかするとそれは、私たちが大切にしている「Humanizing Football」に近い概念なのかもしれないと感じた。

 

Humanizing Football フットボールのヒューマニゼーション。日本語にすると「サッカーをヒューマナイズする」とでも訳せるだろうか。

 

「フットボールをヒューマナイズする」とは、つまり「感情」や「感覚」、「意思」や「意見」といった人間特有の価値あるものをフットボールに「汲み」ましょう、ということ。

 

例えば、憲剛さんとの対談の中でも話しに出た「1対1を仕掛けない選手」について。

 

「1対1を仕掛けない」という事象を前に、指導者はその問題を解決しようとする。これまでの私たちだったら「1対1の練習をする」という解決策がまず浮かぶ。様々な「1対1」のエクササイズを考案しては、必死にその課題に取り組んできた。

 

しかしそれは、技術だけの問題なのだろうか?

 

1対1の局面で、その時、その選手は何を感じ、何を思い、どのような選択肢の中から、最終的に「仕掛けない」という決定に至っているのか?考えてみたことがあるだろうか。聞いてみただろうか。対話の機会を設けただろうか。

 

いまざっと想像しただけでも、そこには「失敗への不安」「叱責への恐怖」「ミスを減らすという回避的行動をチーム内で生き延びる術として学習してしまった」など、様々なケースが想定される。

 

こうした「人間的」側面を軽視せず、しっかりと「汲みましょう」というのが、2014年以降私たち指導者の「進化」として求められた点であった。指導の深みが生まれた瞬間である。

 

私たち指導者は「みずから考えてプレーできる選手が理想の選手像です!」なんて言っておきながら、それまで、選手の「思考メカニズム」について思考したことすらなかった。

 

選手の「思考」を理解するためにはまず、私たちが作り上げている環境を徹底的に見直す作業から始める必要があった。

 

ハンナアーレントという、ユダヤ人でありながらナチスドイツの戦犯の裁判を傍聴しながら人類最悪の悪事について思考を深めた方の映画がある。

 

(スペイン語で鑑賞したので、日本語が間違っていたらごめんなさい)

 

この映画のクライマックスに、ハンナ先生は教壇に立ち8分間にわたり学生たちに「考えることの大切さ」を説く。

 

そのシーンは圧巻そして圧倒的で、私はあまりにも衝撃を受けたので、今でもスマホのボイスレコーダーに録音保存している。

 

ここで彼女は、凶悪犯のような「特別な人」が行うのではなく、クリティカルな思考回路を持たず思考停止した無批判な人、上長に従うことに慣れてしまった「優等生的な人」が、あのような人類最悪の悪事をなすのである、といった考察に至っており大変興味深い。

 

この映画における気付きは、いかに「考えない」ということ(思考停止)が危険であるか、ということ。

 

「考えない者」「声をあげない者」が増えれば増えるほど、組織や企業そして国家の「衰退」にまでつながる、と。

 

この映画の中で、戦犯は「あの当時、あの国家において、あれが法律であった。自分は上長の指示に忠実に従っただけである」と、どこか誇らしげに主張をする。

 

そこで「とはいえ、善悪の識別や、人として良心との葛藤は起こらなかったのか?」という問いが投げかけられるが、その戦犯は「従うこと」「忠誠」に自らの「正義」を見出していた。まさに「考えない人」の典型である。

 

フットボールは、みずから見て、感じて、考えて、自己決定して、間違えて、へこんで、やり直して、立て直して・・の繰り返し。それこそが醍醐味である。

 

じゃあ、こうした「人間的な要素」が大切であると仮定して、「従う」「考えない」「意見を述べない」は、チーム作りや組織作りという観点からどうなのだろう。

 

私たちは、ついつい「組織を変える力など自分にない」そう諦めがちである。

 

「どうせ力(決定権)を持った一部の権威者(チームでいう監督などが良い例ですね)の決定に従うんでしょ」なんて。

 

違和感を感じたり、異なる意見を持っていても、声をあげることなくスルーしがちである。私もしょっちゅうスルーしている。しかしそれはある意味、その組織への諦めであり放棄でもある。

 

そんなときにこそ思い出したい。

 

人は声をあげないことが習慣化すると、徐々に考えることに胡坐をかき始める。そして気付いたらいつの間にか脳は思考停止状態となり、従うのが得意な人になる。

 

そして残念ながら、私たちが大事にしている「チーム」は弱体化する。なぜなら、そこには自ら考え自己決定する力を備えた選手が不在だからである。

 

「選手の声を拾う」という作業が、指導者にとって大切な理由はそこにある。チーム内における空気、環境作りの重要性。そこには私たちのコミュニケーション力、関係性構築の豊かさが大きく影響する。

 

これは対選手に限らず、例えば私が監督として他のコーチングスタッフと最適なチーム・組織作りを試みる際も同様である。

 

あらゆる場面において「全会一致は大成功」といった風潮の文化で育ってきた私からすると衝撃的ではあるが、ユダヤ社会では「全会一致」は「否決」になるという。

 

みんなが「それで良いと思います!」と賛同した場合、その会は仕切り直しになるというのだ。

 

これは、スペイン語でPensamiento de grupo (英語:groupthink)、日本語では「集団思考」もしくは「集団浅慮」と呼ばれ、メンバーが組織内の調和維持を優先するがため議論を避け、乏しい結論に至るリスクを回避するためとか。

 

2014年までの私を振り返ると、あまりに思い当たることばかりで、反省しても反省しきれない。

 

当時、私をサポートしてくれていた4名のコーチと22名の選手たち。彼らは、自分が言いたいことや、私とは異なる意見を表明することができていただろうか?本心は違うのに、私の意見に賛成すること、私の声に追従することに慣れてしまっていなかっただろうか?

 

建設的かつ有効な意見が生まれる環境作りや、より多くの意見を聞くことでアイデアの質を高める工夫、そこからの深い議論。コミュニケーション力、豊かな関係性の構築。そうしたチーム作りには到底至らなかった当時の私。

 

「満場一致」を「否決」とする文化は、さすが知的パフォーマンスが高いユダヤの人々の叡智である。

 

フットボールには、勝敗に直接的に影響を及ぼす絶対的要因は、あまり無いと私は思っている。

 

「あの選手を出さなければ勝てない」とか「今日は勝たなければいけない試合だから、あの子は出せない」といった思考の罠に指導者はよく陥りやすい。

 

しかし、これらフットボールにおける勝因や敗因は、実はあまりはっきり特定できるものではないはずで、あくまで主観的かつ後付けで意味付けや正当化されたもののことが多い。

 

そもそも、退場処分を受け10名もしくは9名となった数的不利なチームが、ちゃんと11名揃ったチームを相手に勝ってしまうことだってあるスポーツである。

 

フットボールは、スピードや距離や重量といった「絶対値」を競う競技ではないからこそ、こうした目に見えにくい、しかし価値ある人間的な側面に目を向けることで、より豊かなスポーツ文化が生まれる可能性を秘めている。

 

Humanizing Football。時間はかかるが、全ての指導者が取り組む価値のあるチャレンジには違いない。