外国を訪れると、その国の「道路」「トイレ」「病院」「学校」が気になる。

 

「道路」は、その国の経済発展状態を映し出し、「トイレ」は、その国の民度が反映される。「医療現場」は、その国家の機能具合が見て取れるし、「教育現場」は、その国が目指し掲げる「理想の国民像」が計り知れる。

 

どの国にも、それぞれのお国事情があって、外国人に見せたくないものがある。日本も然り。

 

そして、ついにキューバでは「病院」と「学校」を見せてもらうことが出来なかった。

 

先日乗ったタクシーの運転手さんは苦しそうに、「私たちキューバ人は、この国で従うことを学ぶのです」と呟いた。

 

「罰する」ことは「従うことを教える」こと。改めてそう実感した瞬間だった。

 

教育とは何なのか?

 

少し話は脱線するが、以前、日本人と結婚している国際結婚組の西洋人たちが「なぜ私は息子・娘を日本で育てたくないのか」をテーマに議論する会で、ある方が「そもそも教育の定義が日本は西洋と異なる」と話していたことを思い出した。

 

日本の教育は、資本主義社会の中で、資本を効率的にドライブ(流動・動かす・循環)させる労働力を育てるための教育。そのための優秀人材を育てることが目的であると定義するなら、日本の教育はその目的を最高得点で全うしている国だ。

 

上長に従う教育、クリティカルシンキングが育たない教育プログラム、議論することが許容されない文化、ブレストなど発展的コミュニケーションからイノベーションが生まれない、自己決定ができない。そして「UNDOUKAI(運動会)」に、日本の教育のあらゆることが反映されている、と。

 

西洋における教育の定義は「ひと」を育むということが目的であると。

 

色々とツッコミたい衝動にも駆られるが、彼らがこぞって「そうだよね〜!」と盛り上がって意気投合するのを見ていると、異なる文化や多角的な視点からの厳しい指摘を謙虚に考察するのも面白そうだな、とも思う。

 

私は海外生活が長く、日本に住んだ時間は少ないが、海外でも日本人学校に通っていた。「もし、もう一度生まれ変わったら、また日本の教育システムを受けたい」私はいつもそう公言しているが、これは本心である。

 

そして、こうして指摘されたネガティブな日本人特有の側面こそ、私はサッカーというスポーツ現場から改善することができると強く信じている。