ドミニク・チェン氏のこのブログが最高だったので、ここに「書くこと」で自分なりの思考の整理をしてみたい。

 

サポーターや選手同士による人種差別的行動がいまだに後を絶たないのはなぜだろうか。

 

ひとの思考の仕組みには「良い・悪い」や「強い・弱い」など、2極どちらかに整理しようとする癖があると思っている。(日本の文化においては「上・下」という仕分けも?)

 

私だけかもしれないが、「対ひと(人)」において、ついつい「どっち側の人?」というジャッジを常に行っている気がする。

 

よく「無意識に本性は現れる」といわれるように、ひとはどんなに高尚なスローガンを謳い掲げても、ついついポロリと本音がこぼれる、といったことが日常よくある。

 

私もこの「無意識」「意識」についてビジャレアルで少し学んだことがある。そこでは「監督の思考にある本音と本性が対選手に及ばす影響について」といった「人材養成」の観点からではあったが、とっても深い学びを得た。

 

『本音や無意識は、その人がどれくらい豊かな精神生活を送ってきたか、何を経験して、何を見て、考え、行動してきたかということによって耕される。酒の席での本音は、いわばその人の人生の通知表。その発言が愚劣なものだったら、教養不足な人生と断じられても仕方がない。』脳科学者・茂木健一郎氏は「無意識」についてこう説明している。

 

【もうひとつ、無知から生まれる重大な障害が無関心である。無関心とは対象となる人種の民族と文化の歴史、つまりコンテキストへの無関心である。】

 

人間の最大の障害は「無知」である。これはスペインでもよく言われるが、見聞を広め、知見を養い、視野を広げる意義は、まさにそこにあると私も常々感じている。

 

また、このブログにも書かれている2014年4月のビジャレアル対バルセロナ戦におけるダニエウ・アウベスの話しは、私も社員として渦中にいたため、今でも忘れもしない。

 

あの事件は、バナナを投げ入れた「サポーター」がスクールコーチだったという背景もあり、クラブをあげて猛反省するきっかけとなった一件であるが、会長は「人種差別は絶対に許さない」と生涯入場禁止処分をその場で発表した。その決断を下した時点で、会長はそのサポーターがスクールコーチであったことを知らなかったはずで、週明けに身分が判明したあとコーチとしても即解雇となったと記憶している。

 

少し話は脱線するが、ビジャレアルに過激サポーターグループは存在しない。それは、よくある「ちょっぴり元気のいい系」のサポーターグループが、ほんの少しでも「ビジャレアル規格」外の言動をとるたびに即解散処分となってきた経緯があるためである。会長は、素行の悪いサポーターについて「そんなサポーターはうちには要らない」と断言するし、「クラブにもサポーターを選ぶ権利はある」という姿勢を貫き、これまで「ビジャレアルのサポーターのあるべき姿」を明確に示してきた。

 

一般的に欧州のフットボール界は「敵・味方の思考」が根強く、対抗、対立、反発、憎悪、敵対心、妬み、恨みなど思想的汚染も激しく、決して健全なスポーツ文化とは断言できない。

 

昨年、一時帰国した際にJリーグの試合観戦にご招待頂き、スタジアム周りや会場内における溢れんばかりの「優しさ」と「温かさ」に触れ、私は心から感動し衝撃を受けた。そこには私の知らないフットボール文化が広がっていた。

 

そして、これまでJリーグのことを全く知らなかった私が、いまこうしてJリーグの一員でいることに誇りを持てるのも、まさにこうしたJリーグ・バリューへの裏付けがあるからだと思っている。

 

深く人類史に根付く「敵を排外する」という方法論を「差異を包摂する」というもので置き換えなければならない。】

 

武道には「仕合う」という思想があると、ドミニク・チェン氏は言う。相手同士、つまり試合を通して互いの技を高め合うパートナー同士という認識論だそうだが、いままさにフットボール界全体が必要としているのは、この「仕合う」精神ではないだろうか。

 

以前私も、アウェー戦で「中国人はレストランでチャーハンでも炒めてろ!」と罵声を浴びたという話をブログに掲載したことがあるが、いま世界的に問題となっている黒人(有色)・白人問題にとどまらず、私たちフットボール・パーソンも積極的に「仕合う思想」を文化に変える努力をすることで、より良いスポーツ文化・・最幸(最高)のスポーツ文化を築けるはず!そう信じてやまない。